葛飾北斎が晩年に創作活動を行った、長野市小布施町。この町の江戸時代から続く酒蔵で、杜氏としての修行を積み、大好きな酒造りに携わっている大槻暁史さん(29)。2020年からは、フリーの噺家・鯉登(こいと)として、長野の街で落語の公演も行っています。舞台は、カラオケバー、着物屋、ゲストハウスにシーシャ屋と多岐に渡ります。酒造りと落語。共通しているのは、「いい夜を過ごして欲しい」という思い。今の生き方にたどり着いた背景を伺いました。



「鯉という魚は大変に縁起の良い魚だそうで……」

落語の冒頭では世間話や本題と関連する小噺「マクラ」が話されるのが一般的です。そこから「本題」に入り、オチにあたる「サゲ」で落語は構成されています。マクラは聞き手に自然と落語の世界に入ってもらう役割を果たします。


今回の取材にあたり、「マクラ」を用意していただきました。

「鯉という魚は大変に縁起の良い魚だそうで、男が女を口説くのに色鮮やかな魚を使ったからコイ、恋に転じたなんて言う。なんだかんだ、縁起がいい魚だそうです。ただ食べるぶんには頭から尾っぽまで泥臭くて敵わない。人間もそうです。煮ても焼いても喰えないところが絶対ある。しかし、たまにそういうところを美味い美味いという物好きがいるようで。今回は、そんなモノ好きな書き手の手で好きなようにされる。まな板の上の鯉登(こいと)。捌かれるのを存分にお楽しみください……」 



演目もマクラも、公演をするお店や客層に合わせて都度練っていきます。



「桃太郎」が話せる人なら、落語はできる

「落語って、公式な台本がないんですよ。本やネットで調べれば、あらすじを文章に起こしている人はいるけれど、噺家によって話がガラッと変わるんです。サゲ(※話のオチ)も何パターンもあります」


大槻さんは練習の方法として、まずは好きな噺家さんが話しているのを何度も聞いて覚え、次に、もう1パターン違う噺家さんの話を聞き、2つを織り交ぜていきます。文章で読んで、単語やセリフを暗記するのではなく、聴いて流れを覚えるそう。


 「覚えるの大変じゃない?とよく言われますが、そんな大層なことじゃないですよ。『桃太郎』の話をしろって言われたら、だいたいの人はそらで言えるでしょう?桃太郎ができる人は、落語もできますよ。話の終点に着地さえすればいいんです。各駅停車をどこまでやるかで密度が変わるだけ、やっていることは一緒です。最後まで完璧にきっちりやることが大事なのではなくて、面白ければいい、お客さんが満足すればいいのが落語なんです。自由でいいですよね。自由すぎて困る部分もあるんですけど」 



自分の中にキャラクターが出来てくる

1度の公演につき、約20分ある演目を2本覚えているという大槻さん。最低1ヶ月かけて、1つの演目を自分の中に落とし込んでいきます。 


「最初はすごく時間がかかりましたね。話の内容を覚えるだけなら3日もあれば十分ですが、覚えることと自分の中に話として落とし込むのはまったく別です。例えば、落語に出てくる言葉の多くは、江戸時代の単語だから俺もなじみがないし、そのまま話してもお客さんにも伝わらない。まず自分が言葉の意味をひとつひとつ調べて理解して、さらに伝わるように噛み砕いて、それを覚えるのは骨が折れます」 



公演中は、すっかり役に入り込んでいます。


「覚えていくうちに、自分の中にキャラクターが出来てくるんです。あの噺家さんのセリフはこうだったけど、『俺の中の佐平次』は絶対にこれを言わない、のってこない!と感じる時があって。そしたら、自分がしっくりくるようにセリフを変えていきます。それを何回も何回も繰り返していくうちに、自分らしい話に仕上がって、味がでてきます」



自分自身の中の含蓄が反映される

1人で何役をも演じ分ける落語。それぞれの登場人物を自分の中に作り込んでいく上で意識していることや、難しい点はあるのでしょうか。 


「学生時代に演劇をやっていたのもあって、演じ分けはあまり困ったことがありません。落語をやる上で最初の壁は男女の演じ分けと言われているのですが、自分は女性の役をやりやすい声質なんです。いわゆる女性らしい所作を身に着けるのも、そんなに困りませんでした」


「いまの課題は、威厳のある役をやる上で説得力がないこと。声や仕草の演じ分けができても、自分自身にまだ含蓄が足りないんですよ。番台さんだったり、店の旦那さんなど、人を諭したり導く40−50代の男性役がハマりきりません」 


役に深みを持たせるため、釣りをしてみたり、本を読んだりと、なんでもやってみるという大槻さん。全ての経験が落語の役作りにつながっていき、日々の生活にも張りと深みが出てきたと言います。 



学生劇団で、落語をベースに台本を書いたのがはじまり

そんな大槻さんが落語に初めて触れたのは、大学生の頃まで遡ります。当時所属していた劇団「おちょこ」がきっかけでした。劇団では、既存の台本を使うのではなく、劇団員が書いた台本を使っていました。台本を書くにあたり、既にある話を台本に起こした方がやりやすそうだ、と大槻さんが目をつけたのが落語でした。


「落語がベースなら、お客さんの耳馴染みもいいし、単純に面白い話が書けるなと思ったんです。落語は登場人物もそこまで多くないので、小さい劇団でやるには人数的にもいい塩梅でした。結局自分の書いた台本は通りませんでしたが、本格的に落語に触れたのはそれが初めてです」


大学卒業後、大槻さんは演劇から離れ、新卒で千葉県の不動産会社に入社します。ザ・体育会系な社風だったそう。演劇をしており、もともとしゃべるのも好きだった大槻さんは志望した営業部に配属されました。 



一体あと何年働き続けたらいいんだ?先の見えない日々

「そこがいわゆるブラックな会社で。労働環境が良くない上に、ひたすらダメ出ししてくるヒステリックな上司がいました。何を言っても怒鳴られて否定されるうちに、喋れなくなってしまったんです。期間でいったら3日間ほどでしたが、あんなに喋るのが好きだった自分が、まったく言葉が出なくなってしまった。ショックでした」


声が出るようになってからも、同じ会社でなんとか働き続けていた大槻さんでしたが、どれだけ頑張っても出世できない状況の中で、一体あと何年働き続けたらいいんだ?5年?10年?と、だんだん将来が見えなくなっていきました。 


「先が見えないと思っていた矢先に、体調を崩し、やむなく退職しました。それがきっかけで婚約していた恋人とも別れて、関東に残る意味がなくなったんです。そうして地元に帰ってきたのが27歳の時です。そこから2ヶ月ニートをして、ようやく重い腰を上げて地元の会社説明会へ行きました」 



「俺、ここで働きたいです!」

大槻さんが、「どこでもいいや」と適当に入ったブースは、小布施で旅館と和菓子屋を営む会社でした。人事の人と話すうちに、実は酒蔵もあって日本酒を作っていると聞いた大槻さん。大好きな日本酒造りに携われると聞き、そのまま勢いで「俺、ここで働きたいです!」と食いつきました。 


大槻さんが日本酒の魅力を知ったのは、千葉で暮らしていた大学2年生の頃。20歳になったばかりの頃は、日本酒はただ「酔えるもの」であり、チェーンの居酒屋で出てくるような安いものしか知りませんでした。


「当時付き合っていた彼女がすごく日本酒が好きだったんです。よく飲みに付き合っていたんですが、ある日2人で御茶ノ水を散歩して神田に行った時、ふらっと入ったお店で「俺もこうなりたい!」と思える人に出会いました」 



大槻さんの行きつけのお店、「すじかい」の店内。日本酒のラベルがずらり。


神田は、かつて問屋街でもあったことから、関東随一の日本酒が集まってくる飲み屋街です。そこでお店を構えていたのが、純米酒バー「すじかい」店長の石川肇さん。ここで大槻さんは日本酒の奥深さを学んでいきます。



豊かな言葉で酒の味を語りたい

「日本酒の味って、からい・あまい・きれがある、くらいだと思っていたんです。でも、すじかいで飲んでいる常連さんたちは『これは、夕方の波止場で夕日を見ながら故郷を懐かしんで飲む酒の味だね』なんて、風景や過去の思い出を交えて味を語っていたんです。衝撃でした。なんて豊かな言葉で酒の味を語るんだろうって。おもしろいですよね。自分もそうなりたくて、日本酒の魅力を肇さんに習いにずっと通っていました」



関東を離れた今でも、「すじかい」には大槻さんのマイおちょこがキープされているそう。


日本酒の魅力にハマった大槻さんは、地方の中小企業論を専攻していたこともあり、日本酒と酒蔵をテーマに卒業論文を書きました。学生の頃は、まさか日本酒を仕事にするとは一切思っていませんでした。 企業説明会で出会った会社は、もともと日本酒造りに携わる部署の募集はありませんでしたが、人事が大槻さんの熱意に押され、融通を効かせてくれたことで酒造りの部署に配属となりました。


こうして大槻さんの長野での暮らしが始まりました。噺家・鯉登が生まれる約1年前の話です。


冬の桝井一市村酒造場。ここで酒造りの修行に励んでいます。 



「もしよかったら俺なんかやりますよ」

仕事に慣れてきてからは、仕事終わりに飲み歩く余裕ができました。一度家に帰って、権堂駅から長野駅間をふらりと歩いて気に入ったお店に入っては新しいお店を開拓していった大槻さん。


権堂にある「ライブレストラン ビアホールトピ」のジャズイベントに参加し、音楽いいじゃん!と気づいた大槻さんは音楽系のバーを探すようになり「ミュージックバー 花の木」と出会いました。花の木は、本格的な音響設備を備えたカラオケバーです。


 「店長のだいすけさんは、作詞作曲を手がけ、音楽活動もしている方。裕福なわけでも、社会的に大成功しているわけではないけれど、とても魅力的なんです。それがなぜかを考えたら、『豊か』な人だなって。俺もいつかこうなりたい。人生の先輩としても、『表現者』としても、俺のロールモデルになりました」 


常連さんや店長の歌を聴いたり話したりするのが楽しく、週に2−3回はバーに入り浸るようになった大槻さん。年末頃に、店長のだいすけさんとなにか店で出し物でもやろうかと話していた時に、「もしよかったら俺なんかやりますよ」と提案をしました。自分にできることはなんだろう、と考えた時に思いついたのが落語でした。 



「ミュージックバー 花の木」での公演の様子。


バーには、ステージ、音響、照明も揃っています。せっかくだからフライヤーも作って人を集めようと、店長の協力のもと告知も行われ、花の木で初の落語公演が行われました。当時はまだ芸名がなく、苗字から取ってイベント名は「大槻寄席」。常連さんを中心に、盛況に終わりました。



ご縁がご縁を呼び、広がっていく落語会

こうして、はじめはお世話になっているお店への恩返しのつもりで始めた落語会。ご縁がご縁を呼び、活動拠点はどんどん長野市街へ広まっていきます。 


落語をやるには着物がないとね、と、長野市内のリサイクル着物屋「たんす屋」に出向いた大槻さん。店員さんからの「どうして着物を買うんですか?」という質問に、落語の公演に向けて衣装が必要だと相談すると、「今度うちのお店で夏の浴衣会をやるから、うちでも一席やりませんか?」と声がかかりました。こうして少しずつ、活動の拠点が増えていきます。 



「たんすや」主催の落語会での様子。着物も「たんすや」で購入したものです。



ゲストハウスでの落語会で「噺家・鯉登」としてデビュー

職場である桝井一市村酒造場の系列店、栗菓子を扱う小布施堂で働く同期と飲み友だちになった大槻さん。「長野市に、大槻さんの気に入りそうな店があるから連れていきたい」と誘われ、訪れたのは長野市のゲストハウス「WORLD TRECK DINER & GUEST HOUSE - Pise」。

はじめはお客さんとして通ううち、「うちでもぜひ落語会をしませんか」とスタッフから依頼されます。コロナ以前までPiseは海外からのバックパッカーで賑わう店でしたが、コロナ禍を受け半年休業し、国内・県内のお客さん向けにリニューアルオープン。人の集まる場所にするため、毎週イベントを企画しようと工夫しているところでした。ぜひ、と大槻さんは快諾。一緒に企画を進めていきます。 



季節恒例となったPiseの落語会。客層も幅広く、大盛況です。


「イベントの告知、お名前なんて出せばいいですか?」と聞かれ、これを機に芸名を持とう、と考えたのが「鯉登」。芸名である「鯉登」は、マクラの通り鯉から取った名前。大槻さんの生まれ育った長野には鯉を食べる文化がある上に、鯉は縁起の良い魚。長野で活動する上でうってつけの名前でした。鯉は、空気を飲んで泳ぐとも言われています。お客さんや会場の空気を飲めるように、「鯉登」を名乗り始めたそう。 


2021年5月、Piseでの落語会から、大槻さんは噺家・鯉登としてスタートを切りました。Piseの落語会に来ていた、近隣のシーシャ屋さん「シーシャ場 円」のオーナーに「うちでも落語会やりませんか?」と声をかけられ、さらに活動の幅は広がっていきます。鯉登としてのInstagramを開設し、オンラインでライブ配信をするうちに、県外にもファンや噺家仲間が増えていきました。


「シーシャ場 円」での落語会。小上がりになっている座敷席を舞台に。 



「話し続けることで、かつての自分を救いたい」

こうして、人との縁がきっかけで活動の幅が広がっていった落語会。初めての公演からは1年半以上が経ちました。フルタイムで働きながらも、こうして続けていられる理由はなんなのでしょうか。 


「続けている理由はいっぱいあります。自分自身が救われているところがあるんです。昔の自分に対するリベンジマッチですね。声が出なくなった頃の自分に2度と引き戻されたくない気持ちと、別の先輩に『お前面白くないな』と言われたのがずっと引っかかっているんです。当時は、ふざけんな!と思っても何も言えなかった。今なら、お前つまんないなって言われても、『俺おもしろいけどな』と自信を持って思えます」 


「単純に、やっているのが楽しい面もあります。演目を始める時の緊張感。これが楽しい。緊張した体と気持ちを御する作業がすごく好きなんです。ふつうに社会人をやっていて、プレゼンをやるとかはあるかもしれないけど、日常ではあじわえない緊張感です。最後までやりきった時の達成感は、なんとも言い難いです」 



落語を始めて、人にも自分にも寛容になれた

実は、かなりの完璧主義だという大槻さん。かつては「なんで俺は完璧にできないんだ」と凹んでしまうことも多かったといいます。落語をやっていても、セリフを間違えたり、順番をまちがえてしまうこともあります。しかし、落語は台本がないため完璧な形がありません。完璧にできなくてもいいんだ、まぁいっか、と自分を許せるようにもなったそう。 


「私生活にもいい影響がありました。落語ってどうしようもない人ばっかり出てくるんですよ。お金にだらしない奴、女にだらしない奴。人間って、100年以上前から何も変わってないんだな、人間ってそんなもんだよね、大したことないよって。自分にも周りにも寛容になれたと思います」 



「いい夜だったな」と思ってもらえればそれだけでいい

大槻さんがいつも大切に懐に入れているという扇子。初めて花の木で高座に上がった際、表現者としての師匠であるオーナーのだいすけさんにサインをもらいました。そして、これからの決意を込めて「豊穣」と自分で記したそう。「豊穣」は栄養がいっぱいあって豊かな様を示した言葉です。


 「豊かな言葉を使いたいんです。営業時代の上司や、喧嘩ばかりしていた家族。怒鳴る時に使う言葉が、つっけんどんで芸がないんですよ。何十年も生きてきて、そういう言葉しか使えないのかと。俺はそうはなりたくなくて。落語を始めたことで、言葉を大切にするようになったし、着物を着るようになって四季を感じられるようになった。日々が豊かになっていくのを感じます」


いつも持ち歩いている扇子。大槻さんの大切なお守りです。 


「自分の落語を、そこまで業業しいものにしたくないんです。こうありたいと思うのは、いい夜にしたい、ただそれだけ。実家が、喧嘩が絶えない家だったんです。俺は末っ子で、家族が喧嘩しているのを1人やりすごす夜があまり好きじゃなかったからか、夜にいい思い出がないんです。俺ごときがなにかやったことで、目の前のその人の人生がよくなることはありません。でも、俺が喋っているたった1時間、2時間だけでも笑ってくれればと思って話をしています。それが1人でも2人でもいい。いい夜だったなと思ってもらえればそれだけでいいんです」


ゲストハウスPiseでは、大槻さんが落語会をはじめたことにより着物屋さんから来たお客さんも増え、気軽に着物を楽しむことをテーマにした「きもの会」が生まれました。今まで気になっていたけれどきっかけがなかったというお客さんが、落語会をきっかけに足を運ぶようになり常連になることも。


「何より、落語を始めたことで人の繋がりができました。続けられている1番の理由はやっぱり『人』です。俺がどんなに好きでやっていても、聴いてくれる人がいないと続けられない。求められてこそ続いている。営業をしていた時や、ただ飲み歩いていた頃はこれほど豊かな人との関わりもてるようになるとは想像もつきませんでした。このパワーたるや。落語という文化に感謝ですね」



お世話になっているお店への恩返しから始まった、大槻さんの落語の道。自分が喋っている数時間だけでも、目の前のたった1人が笑ってくれればいいという思いが、長野の人と人、場所と場所をゆるやかに繋ぎ、豊かな時間を醸しています。 



大槻暁史さん/噺家・鯉登(29) 

1992年長野生まれ長野育ち。学生時代、関東の劇団「おちょこ」に所属。卒業後は千葉県の不動産会社に営業として勤務。27歳で体調を崩したことをきっかけに、地元である長野県に帰ってくる。2020年から小布施町の桝井一市村酒造場で蔵人として酒造りに携わる傍、「噺家・鯉登」を名乗り長野市街の飲食店を中心に夜な夜な落語の公演を行う。


Instagram

@hanasika.coito



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