フラワーデザイナー2人が経営するバー

「MEME」は、長野出身の内山結生(ゆい)さんと、東京出身の高桑朋哉(ともや)さんの2人が長野市・権堂でオープンさせました。共同オーナー2人の共通点は、フラワーデザイナーの顔も持つこと。バーの店内には、2人の手がけた花が飾られています。現在はECサイトの準備も進めているそう。


高桑さんは、東京都世田谷育ち。農業高校の園芸科で植物について学び、卒業後は植木屋での勤務を経て都内一流ホテルを手掛ける花屋に転職。コロナ禍を機に、24歳でフリーランスのフラワーデザイナーとして独立しました。


生まれも育ちも職場も東京。長野にはなんの所縁もなかった高桑さんは、経営はもちろん飲食業の経験もないまま、長野でバーをオープンし、共同オーナーを引き受けることを決めたと言います。バースプーンを初めて握ったのは、MEMEのオープン日。長野と東京の2拠点生活と、パラレルキャリアを始めるまでの経緯を伺いました。



お客さんのニーズに合わせて変容。1周年を迎える「MEME 」

「MEME」は、ドライフラワーの花束が買えるバーとして、2021年8月に長野市・権堂でオープン。名前の由来は"memento mori"、"memento"からきています。 


当時、長野市では時短要請が出ていましたが、オープン直後から着々とお客さんを増やし、いつも20代前半の若者で賑わう人気店に。現在は23時から明け方5時まで営業しています。居酒屋やスナック、バーなど夜のお店の多い権堂で、テキーラの発注数NO.1を誇るそう。


「MEME」、「UTeRo」の店舗があるレジャーアイランドビル


「MEMEは、お客さんのニーズに合わせて変動しています。オープン直後は、おしゃれなカフェをイメージして、コンクリート打ちっぱなしの店内に暖色系のエジソン電球を吊るし、ドライフラワーを飾った内装にしていました。いざ時短が開けて、夜の営業が始まったらお客さんの年齢層や雰囲気がガラッと変わったんですよ」


現在の「MEME」の店内。


「落ち着いた店というよりは、若い子で賑わうようになったので、じゃあそっちに全振りしよう!と内装を一新しました。今はネオン管を照らして、サイバーパンクをイメージした雰囲気づくりをしています」



カルチャーを発信していく隠れ家バー・「UTeRo」

一方、2022年4月にオープンした2号店の「UTeRo」は、隠れ家風のお店。店名の由来は"under the rose"。秘密裏に行われること、密室での他言無用のやりとりを意味します。


コンクリート打ちっぱなし風になっており、明かりは間接照明。所々に植物が飾られ、ゆったりとした音楽が流れています。扱うお酒も、クラフトビールやジンに加え、バラのリキュールなど長野では珍しい世界の珍酒。入り口は看板がなく、一見分かりづらくしていますが、SNSを見て感度の高いお客さんがやってくるそう。


「UTeRo」でお客さんと談笑する高桑さん(左奥)


「UTeRoは、自分たちでしっかりコンセプトを決めていますね。カルチャーを発信できる店を目指しています。いずれはセレクトした雑貨も扱いたいですし、アートも全面に押し出していきたい。内装のイメージは『色気のある男の部屋』です。あまり店っぽくしたくなかったので、もともとあったスナックのソファーはすべて撤去して、小上がりを作りました」



花器を作るイメージで店を作った

高桑さんは、店のコンセプトから空間デザイン、内装を担当。2店舗共に、床、壁、天井、バーシェルフからテーブルまで、解体も含めフルDIYで作り上げました。設計の経験はありませんでしたが、花の仕事をしていた経験が活きたといいます。


店内にはドライフラワーや季節の花が生けられています


「花を生ける時、オアシスのセットから自分で行いますし、コンクリートや木材で器を作るところから始めることもあります。植木を扱うときはフェンスも作るし、土台のモルタルも練る。これまで手元で作っていた器を大きくすればいいだけだと思ったので、自信がありました。とりあえずやってみたら、全部自分たちの手でできました」


改装前の「UTeRo」の様子。スナックの居抜き物件でした。



高桑さんのデザインの元、全て自分たちの手でDIY。


「俺は、バーテンをやりたくてバーをやってるわけではなくて。共同オーナーの結生さんと、スタッフの子たちが気持ちよく働ける店作りができればいいなと思っています。内装デザインもそうだし、誰が入ってもすぐ働けるようなシステムづくりがしたいですね。俺が補佐をすることで、その人の持っている100の力を101にしたいんです。花の仕事も同じです。俺が作品をつくりたいというよりは、植物が最大限生きる器と空間をデザインしたい」



植物は「生きているアート」

長野でバーを経営する傍ら、フリーランスのフラワーデザイナーとしても活動している高桑さん。花束、空間デザイン、植木の手入れなどを手掛け、東京を中心に日本各地で仕事をしています。


高桑さんが植物に興味を持ち始めたのは、農業高校での盆栽の授業。農業高校の園芸科に進学したのは、中学時代に座学が好きではなく、農業高校なら実技の授業が多いからという理由でした。しかし、段々意識が変わっていきます。


「もともとファッションが大好きだったので、美容系やアパレル系に進むことも考えていました。でも、あるブランドのファッションショーを見に行った時、めちゃめちゃ楽しかったけど『自分はこれじゃないな』と心のどこかで思って」


高桑さんが手がけたアート作品


ちょうどその頃、園芸科の授業で「盆栽」について学び始めた高桑さんは「神と舎利」の考え方に触れます。「神」は枝が枯れた状態、「舎利」は幹が枯れている状態を表します。植物の生きている部分の中に、あえて神や舎利を作ると、その木をさらに個性的にすることができます。


「ファッションをきっかけにいろんなアートに触れてきましたが『生きている』アートは植物だけだったんです。特に『生と死が共存している』のが好きで。花は、1日で生と死を体感できるんです。イベントで花を生けて、その日のうちに撤収してしまう。花の仕事は、生と死が隣り合わせになっている緊張感があるんです」


咲いていた花が、次第に枯れていく。生きているところから死んでいく過程を「美しい」と感じた高桑さんは、植物の世界にのめり込んでいきました。



「花の仕事がしたい!」

高校3年生で7色のバラを作る研究に取り組んだ高桑さんは、バラを使った庭を作ることを目指し就職活動を行いますが、志望していた会社には入れず。卒業後は、まずは庭を作れるようになろうと、植木屋に就職します。


7色のバラを作る研究の様子


しかし、希望していた庭造りの仕事はさせてもらえない上に休みもほとんど無く、労働環境はあまりよくありませんでした。話が違う!と不満を抱えながらも、まずは経験を積もうと働いていた高桑さんですが、2年が経っても庭の仕事ができず、退職を決めました。


「バイトでもいいから花に触れたくて『花のバイトだれか募集してない?』と何の気なしにツイートしたんです。そしたら、高校時代のバイト仲間から『うちの職場、花の部署のバイト募集してるよ』とすぐに連絡がきました」


友人の職場は、六本木にある都内一流ホテルを手がける花屋。まずは話を聞きに行こうと高桑さんが訪れたその日は、ちょうどウエディングフェアが行われていました。全てが花で彩られた会場に足を踏み入れた高桑さんは「こんな世界があるのか」と衝撃を受けます。ぼんやりと抱いていた「植物を用いた空間デザインがしたい」という思いが一気に現実味を帯びてきました。


その場でマネージャーと立ち話をし、意気投合。「正社員で入らない?」と誘われ、面接もバイトも飛ばし、中途で採用となります。やる気と植木の知識はあれど、ひまわりとバラしか花を知らなかった高桑さんは、花の知識をつけ、花用のナイフの扱いを覚えるところからスタート。仕事を覚えるうちに、やる気があることを買われた高桑さんは、21歳でホテル館内以外の案件を担当する部署に配属になりました。



いらないものを削ぎ落とし、シンプルな美を追求する意識が身についた

高桑さんの部署が主に請け負っていたのは、名だたる世界的なブランドの顧客向けのパーティーやプライベート販売会。ショーケースと共に並ぶ花や、商談室のテーブルに生ける花だけでなく、空間デザイン全てを担っていました。


ブランドのコンセプトに合う花器がなければ、木を削ったりモルタルを練ったりして器を一から作るところから。日本庭園風の会場では、竹を生けたり、岩に1日中苔を貼り付けたりすることも。


「社長が『白!』と言ったら真っ白の塗料を準備する。『10cm』と言われたら、10.1cmは許されない。そんな意識で仕事に向き合うことを学びました。いらないものをひたすら削ぎ落として、シンプルな美を追求する意識はこの時に身につきましたね」



「最強の右腕」であることを意識

社長とマネージャーが生ける花にずっと感動していたという高桑さん。自分が花を生けても、この人たちには絶対勝てない、自分はただ真似事をしているだけだ、という意識があったそうです。


「俺自身が作品を作りたいというよりは、チームの2人のサポートをするのが好きでした。社長は、花を生ける時一切俺のことを見ないんです。社長が必要なタイミングで、さっとナイフを渡したり、丁度いい長さに切った花を渡せるのがうれしかった。自分は『最強の右腕』になれるように努力していました」


花の仕事が楽しくて仕方なかったという高桑さん。仕事は激務で、深夜の3時に仕事が終わって、家に帰ってシャワーだけ浴びてまた出勤したり、作業場にダンボールを敷いて15分だけ仮眠したりする日もありました。


「『地獄だ!!』って叫びたくなる日もありましたけどね(笑)それでも仕事がめちゃめちゃ好きでした。香港など海外出張にも行かせてもらえたり、貴重な経験をたくさんさせてもらえましたし、なにより、毎日花に触れて幸せでした」



「もっと世界の景色が見られる仕事がしたい!」

そうして休む間も無く働きづめだった高桑さんの生活に、変化が訪れました。2020年の春、コロナウイルスが流行りだし、結婚式、パーティー、オリンピック関連のイベント……お花の仕事が軒並みキャンセルになったのです。出社しても花の入荷は無し。事務所で書類の整理だけをする日々が続きます。一時的なものだろうと思っていたコロナの影響は、夏まで続きます。働き始めてから、連日明るいうちに仕事が終われることはなかなかありませんでした。


そして8月21日、高桑さんの誕生日。高桑さんは、友人とふたり、福島県にバイクでツーリングに行きました。天気は見事な晴天。磐梯吾妻スカイラインに広がる青空を目にした高桑さんは衝撃を受けます。 


高桑さんの人生を変えた、磐梯吾妻スカイライン


「その時の景色が、あまりにきれいすぎて。『もっと世界の景色が見られる仕事がしたい!!』と思ったんです。忙しく働くことも、花の仕事も好きでした。でも、世の中にはこんなにきれいな自然があるのに、忙しく働いてる場合じゃなかったかもと気づいたんです」


東京に戻ってきた高桑さんは、フリーランスの商社マン・小林邦宏さんの著書「なぜ僕は「ケニアのバラ」を輸入したのか」と出会い「これだ!海外に行って、まだ日本にない植物を輸入しよう」と決めました。


「輸入をしつつ、海外を回ってもっといろんな景色が見たくなったのは勿論そうですが、そもそも俺がしたいのは、花の世界で『勝つ』ことではないなと。俺が『美しい』と感じる生け花をする人のサポートをすることが好きだったので、まだ日本にない植物を俺が輸入できれば、彼らがもっといい作品が生み出せると思ったんです」



東京の仕事を離れるには絶好のタイミングで誘いの声がかかる

その数ヶ月前に、通っていたバーのバーテンをしていた内山さんから「独立して、地元の長野でお店をやろうと思っているんだけど一緒にやらない?」と誘われていた高桑さん。内山さんとは、花の仕事を共通点に打ち解け、よくご飯にいったり話をしたりする仲でした。「自分にできることがあれば」と、ひとまず東京からの引越しの手伝いを通して、1−2ヶ月に1度長野に通うようになりました。長野の湖や山など、豊かな自然に触れるうち、長野でお店をやるイメージができてきます。


お店を始めると決める前の2人の一コマ


「東京の仕事を離れるには、絶好のタイミングでした。福島の青空を見てから、辞表を出すまでは1ヶ月。社長には『こんなに育てたのに辞めるのか』と怒られ、本当にこれでいいのかと悩みました。でもマネージャーに『全てのことは過ぎ去る。今の寂しい思いも、数年後には過ぎ去るよ』と言っていただいて。いつか必ずいい顔で会いに行けるようにしよう、きっぱり辞めようと決めました」



手探りながら長野で居場所を作っていった

アートや空間デザインの仕事と、インプットは続けるため月の半分は東京、半分は長野にいることを条件に、高桑さんは内山さんと長野で「MEME」を始めました。


オープニングスタッフとして、内山さんのかつてのバイト仲間である牧内凛太郎さんも加わりました。牧内さんは、内山さんが「彼になら売り上げ全額持って逃げられても構わない」と推した人。オープン直後に固定のお客さんがついたのは、牧内さんの集客力が大きかったと高桑さんは振り返ります。


オープン直後の「MEME」(左から、内山さん、高桑さん、牧内さん)


一方で、長野出身の内山さんと牧内さんと違い、長野にはまったく知り合いがいなかった高桑さん。オープン当時は、高桑さんが1人で店に立つ日は売り上げが数千円のみのこともあり、悩むこともあったそう。


「自分は、もともとシャイだし人見知りなんですよ。今までずっと植物と向き合ってきたので、人と向き合う仕事はあまりしてこなかったんです。接客って『人の気を吸収する仕事』なんだなと実際にやってみてわかりました。ドアを開けて入ってきたお客さんの顔をみて『この人はなにを求めてここにきたんだろう』と考えながら接客していくのは簡単なことではありませんでしたね」


手探りながら仕事を続けるうちに、着々と高桑さんにつくお客さんも増えてきました。今では、長野に来てから増えたSNSのつながりだけでも150人を超えます。プライベートの交友関係もできました。現在は、営業時間後にお店のソファーで眠る生活ですが、長野での住まいも探し始めています。


改装工事中は、店舗に布団を敷いて寝泊まりしていました。



表舞台に立つより裏方へ。

1年足らずで2号店「UTeRo」もでき、新しいスタッフも増えました。バーの仕事は順調に軌道に乗っています。今は現場に立っている高桑さんですが、いずれは現場を離れ、自分のゴールである海外に行って、まだ日本にない植物を探して輸入することを目指して動いているそう。


「メインでやってるようで、やっぱり裏方が好きなんです。前職で社長が花を生けるのをサポートしていたように、俺はいつだって最強の右腕でいたいんです。まだ日本にない美しい植物や、面白い酒を世界中から探してきて、ここをもっと良い場所にしたい」


表舞台より裏方。その思いは、高桑さんの服装にも現れています。普段から、黒色を着るようにしているという高桑さん。ただ黒が好きだからではなく、前職の社長に「唯一花にない色が黒色だ」と教わったからだそう。扱う花が最大限映えることを考えて、黒を選ぶようになったといいます。店内の内装や、お客さんが映えるように「MEME」、「UTeRo」でも、スタッフの服は黒色で統一されています。



「俺が作ったランウェイを、誰かに歩いて欲しい」

「振り返ってみると、俺が『めちゃめちゃこれをやりたい!』と思って動いたことってあんまりうまくいかないんですよね。俺が補佐をすることで、関わる人、扱う花の最大値を引き出す方が楽しいし形になります。それはどの仕事でも同じです。俺がランウェイを歩きたいんじゃなくて、俺が作ったランウェイを、誰かに歩いて欲しいんですよ」


フラワーデザイナーと、バーの経営者。一見華やかな肩書きですが、確かなセンスと審美眼を活かしつつも、表舞台に立つのではなく、花器、店、システムと、舞台そのものを作り続けてきた高桑さん。


東京、長野、そしてゆくゆくは世界へ。活動の場をどれだけ広げても「自分の関わる人が最大限の力を発揮できるサポートをしたい」その想いは変わりません。



高桑朋哉さん(25) 

東京生まれ。都内農業高校園芸科を卒業後、都内の造園会社に就職。その後、六本木の一流ホテルが手掛ける花屋のフローリストとして勤務。ブランドの展示会、ウエディング、ホテル館内の空間デザインの経験を積み、2021年にフリーランスのフラワーデザイナーとして独立。2021年から長野と東京の2拠点生活を始め、長野のバー「MEME」、「UTeRo」の共同オーナーを務める。


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