宮城県本吉郡南三陸町で、ピアノ教師をしている遠藤水華里(ゆかり)さん。

東日本大震災で行方不明になったままの教え子・当時16歳で高校1年生の佐藤久佳(ひさよし)君を想い「あの子が確かに生きていた証を残したい」と、彼が贈ってくれた「なでしこ」の花を全国へ贈る活動を続けています。



自宅の屋根と柱を残してすべて流された

遠藤さんはピアノや琴を教える教室を営んでいて、2011年当時は3歳から50歳まで60人ほどの生徒さんがいたそうです。3月11日の昼下がり、そろそろ教室へ出勤しようと準備をしていたとき、大きな揺れに襲われました。


「津波が来るのは分かっていました。ふだんの地震でも津波警報が出ますから。でも、大きな被害が出たことはありませんでした」

そのせいで東日本大震災でも「今度もどうせ……」と油断してしまい、避難しなかったり避難が遅れたりして亡くなった人が多かったといいます。


「私も、一緒に住んでいた母と妹に『どうしようかね?』と話していました」



2011年3月11日・津波が襲う前の南三陸町(画像提供・佐藤信一氏写真集「南三陸から」(日本文芸社刊)より)


周りの様子を見るため2階へ上がった遠藤さんは、そこで初めて自分たちが置かれている状況を目の当たりにします。


「海に近い家が、船みたいにプカプカ浮いているのが見えたんですよ。これは大変じゃないかって、母と妹を連れて車で自宅を離れました」

当時はブリーダーもやっていて、自宅には犬舎がありました。

「高台に車を置いたら、すぐ助けに来るからね」

そういって車に乗ったとき、波は背後10メートルまで迫っていました。

「でもなぜか、波は自宅の前で止まると思い込んでいたのです」

高台へ避難し、津波が落ち着いてから自宅へ戻ってみると、屋根と柱が残っているだけ。犬舎は跡形もありませんでした。 



久佳君が贈ってくれた「なでしこ」だけが咲いていた

遠藤さんと家族は、それから2日間ほど車中で寝泊まりした後、避難所へ移りました。津波に襲われた町はあまりにもむごい状況で、被害の実感が湧かなかったといいます。

それでも遠藤さんは、避難所で炊き出しを手伝いました。


「ただ毎日、寝て起きて、3升のお米が炊ける大きな羽釜で、湧き水を使ってご飯を炊いて、最大で500人分くらいのおにぎりをつくって、避難所にいる人たちに食べさせることを夢中でやっていましたね」

教え子の安否確認も急ぎました。幸い、ほとんどの教え子は無事を確認できましたが、1人だけどうしても確認のとれない子がいました。それが当時高校1年生で16歳の久佳君です。遠藤さんの教室に、10年間も通っていたそうです。


「電気が復旧してやっとテレビが映るようになったとき、たまたま観ていたニュースで、ご両親が久佳君を探している映像が流れていました。ご両親に連絡してみたら『まだ見つからない』と聞いて……」

避難所の運営を手伝いながら頑張っていた遠藤さんですが、自宅へは戻れなかったそうです。

「怖くて、戻れませんでした」


5月のある日、自宅で海水をかぶって使えなくなっていたグランドピアノを処分することになり、3月11日に避難してから初めて自宅へ戻りました。


「ボランティアの方たちが運び出してくださるというので、最後のお別れのつもりでね」

自宅は見るも無残な形を晒していました。家庭菜園には津波で流されてきた車が3~4台折り重なって突っ込んでおり、桜の木も他の植物も壊滅。

そんな中、鮮やかなピンク色に咲いている花がありました。それは、久佳君が遠藤さんに贈ってくれた「なでしこ」の花でした。


「私が『なでしこの花がほしい』っていったとき、久佳君がお父さんの会社に植えてあったなでしこをもらってきてくれて、庭に植えたんです」

全滅した家庭菜園で、久佳君のなでしこだけが生き残っていました。


「涙が溢れました。会いたい。ただ久佳君に会いたいと思いました」



 2022年5月、遠藤さん宅の庭で咲いたなでしこ



「みんなでヒサを待とうね」久佳君の居場所を残すためにピアノ教室を再開

「ピアノ教室は、もうできないと思っていました」

自宅の壁が流されて、残ったのは屋根と柱だけ。そんな状態でも全壊ではなく「大規模半壊」と評価されるのだそうです。

被災した誰もがその日を生きることに精いっぱいで、音楽を楽しむ余裕はなかったでしょう。そんなとき、教え子だった小学3年生の女の子が、10kmもの道のりを1人で歩いて遠藤さんを訪ねてきました。


「私はピアノを続ける気です。水華里先生は根性がないから、この町から逃げるんじゃないかと思っているけど、私たち結構やる気でいるからね。どこにも行かないでっていいにきたの」

遠藤さんは決意しました。

「逃げるわけにはいかないと思いました」 


久佳君の自宅は津波に流されてしまい、ご家族は三陸町を離れて高台のほうへ引っ越していました。通っていた学校もありません。


「久佳君が帰ってきたとき、居場所がないと困るでしょ。辛かったけど、6月くらいから教室を再開しました」

壊れた電子ピアノをもらってきて修理し、1階に車が突っ込んでいたけれど2階は使えるという生徒の自宅を借りて、遠藤さんのピアノ教室が再開されました。


「周囲に瓦礫の山が見える中、みんなでヒサ(久佳君)を待とうねと再開したんです」

ある日、久佳君のお母さんが、避難所に遠藤さんを訪ねて来ました。


「ご自分達も辛いはずなのに、私が久佳君を思って泣き暮らしているのではないかと、心配して会いに来て下さったのです」

遠藤さんも久佳君のご両親のことが気になって、訪ねたことがあるそうです。久佳君のお父さんは、この地方の方言で「ひょうきん者」を意味する「おだづもっこ」な性格でした。


「お母さんは気丈に振る舞っておられましたけど、お父さんは感情と表情が消えていました」

お父さんは、年老いたご両親を津波で亡くされていたのです。


「久佳君が贈ってくれたなでしこが、津波の後でもきれいに咲いていましたよ。私に何かできることはありませんか?」

遠藤さんが言葉をかけると、ご両親からこんな希望が伝えられました。


「久佳という子がこの世に生まれて生きていたことを、たくさんの人に知ってもらいたいし、憶えていてほしい」

「そうしたら笑顔になれますか?」

「いつかは……」 



学校の体育館が避難所になった(画像提供・佐藤信一氏写真集「南三陸から」(日本文芸社刊)より)


ご両親の気持ちを知った遠藤さんは、なでしこの苗を避難所にいる人たちに配り始めました。


「種では広まらないと思ったので、苗を根っこごとビニールの袋に入れて、皆さんに差し上げました」

避難所で知り合って、友達になったボランティアスタッフの協力を得て始まった活動は、まもなく「ヒサのなでしこプロジェクト」として全国へ広がっていきました。


「私が直接出会って差し上げた人が、さらに他の誰かに差し上げて、手から手へ拡散していきました」



「一生メソメソしますよ。だって悲しいんだもの」

「震災から1年目は、ぼんやりしていましたね。なんとなく、1年経ったら元の生活に戻ると思って暮らしていたんです」

震災からちょうど1年が経った2012年3月11日、遠藤さんは黙祷をしました。黙祷を終え、目を開けたとき、周りの状況が何も変わっていないのを見て、はじめて「自分は被災したんだ」と実感したそうです。そして、精神的に不安定になっていたといいます。


「海に流してしまった犬の供養のためにおやつを海に流していたとき、カモメが空から取りに来たんです。それを払いのけたら足が滑って、自分が海に落ちてしまいました。その日まで海が怖くて近寄れなかったのに、落ちてしまうと簡単に入れたものだから『なんだか簡単だったな』と。そして、そのまま死んでしまおうと思ったんですよ」


2011年3月11日・津波に襲われた南三陸町(画像提供・佐藤信一氏写真集「南三陸から」(日本文芸社刊)より) 


街並みは津波で流されてしまい、残った家から海まで一望できます。遠藤さんが海に落ちた瞬間を、たまたま目撃していた知人がいました。はじめは「水華里ちゃんが海に落ちた」と笑っていたそうですが、岸から離れて沖のほうへ行こうとする遠藤さんを見て「これは大変だ」と、慌てて数人で駆けつけ、引っぱり上げました。


「来てくれた人、みんな泣いていました。本当はみんな辛いけど、応援してくれる人がいるから強く生きようと思って頑張っているのに、あなたは何しているんだって怒られて気付いた。自分だけじゃないんだって」

この出来事を聞いたボランティアスタッフから、遠藤さんに全国で講演してもらおうという話が出て、実際に全国へ出かけていく機会ができました。


「しゃべることで吐き出させてくれたんですね」

でも久佳君のことは、いつも意識の片隅にありました。講演で遠くの街を訪れても、遠藤さんは久佳君の姿を探してしまうそうです。

「もしかしたら記憶をなくしていて、どこかにボンヤリいるんじゃないかと思って」 


講演先では「いつまでメソメソしているんだ」と、心ない言葉を浴びたこともあります。

「10年目に、ご両親とNHKの番組に呼ばれたときに話したんです。『一生泣こうか』って。だって悲しいものは悲しいでしょ」

それ以来「いつまでメソメソしているの」といわれたら、胸を張って「一生します」と返すそうです。



大阪の片隅で突如として始まった「ヒサのなでしこ」に賛同する取り組み

大阪市の南部に位置する東住吉区で「ヒサのなでしこ」に賛同する取り組みが始まったのは、震災から6年が経った2017年のこと。大阪の片隅でなぜ「ヒサのなでしこ」に賛同する取り組みが始まったのか、世話役の神末吉庸さんに聞きました。


「当時、東住吉区の有志でつくるボランティアチーム『e-sumi(イースミ)なでしこ』と、区内の中学校7校、小学校14校の生徒らが一緒になって植物を育てたいねという話が出ました。そのときはまだ『ヒサのなでしこ』のことは知りませんでした」

じつは東住吉区の区花は「なでしこ」です。それなのに、区内の学校や公共施設にはなでしこが植えられていませんでした。

「だから、なでしこを植えましょうという結論になったわけです」


大阪で育てられている「ヒサのなでしこ」 


当時「e-sumiなでしこ」に参加していた女性スタッフが、たまたま「ヒサのなでしこ」と縁がありました。

「せっかくなら、何か所縁のあるなでしこを」ということで、伝手をたどって入手した2株の「ヒサのなでしこ」を神末さんが受け取ったことから、東住吉区での取り組みがスタートしました。


「2株だけでは区内に配ることができないし、自分は園芸の素人なので、地元の商店街にある種苗店に株分けをお願いしました」

2株のうち1株は枯れてしまいましたが、残った1株から10株に分けることに成功。その10株をさらに増やすため、行政が建設し市民が運営する地域農園「クラインガルテン」に栽培を依頼し、72株まで増やすことができました。

神末さんが2株の「ヒサのなでしこ」を受け取ってから、3年半の歳月が過ぎていました。 



クラインガルテンで栽培されている「ヒサのなでしこ」


「種の保存と配布する分を安定して供給できる目途が立ったので、趣旨を説明して『欲しい人は神末まで』と声をかけたら、予想外に多くの人が手を挙げてくださいました」

今では区内の学校、公共施設、個人、店舗などに100株近い「ヒサのなでしこ」が配布されています。


店舗や個人でも「ヒサのなでしこ」が育てられている 


遠藤さんは「10年も経ってから大阪で広がるとは思っていなかったので、私のほうがびっくりしています。みんな楽しく、地域活動の役に立てれば満足です。」と語っています。

また「ヒサのなでしこ」に関して、このような想いも語ってくださいました。


「このプロジェクトは、どこかで誰かが苦しんだり悲しんだりケンカしたらストップするから、優しく楽しく愛しい気持ちでゆるゆるとやってきました」 


今後について伺うと、

「つながったご縁で講演に呼んでいただく機会が多くなり、なでしこのあるところを愛犬と一緒に車で見て歩きたいと思っていましたが、その矢先のコロナ禍でまだ実現していないのです」

と残念そうでした。


「ヒサのなでしこ」を譲り受けた地域や個人からは、毎年「咲いたよ」と、写真と一緒に便りが届くそうです。東住吉区役所にも「ヒサのなでしこ」の花壇ができ、地域住民あげての取り組みへと発展しつつあります。そして今年も、区内から開花の知らせが続々と寄せられています。



『ヒサのナデシコ』プロジェクトFacebook

@Hisayoshinadeshiko



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