展示されている作品は、よく磨かれた鏡でした。一般的な鏡との違いは、そこに写るものに「深み」が見えるところです。前に立つと鏡の中へ吸い込まれてしまいそうな、ある種の凄みを感じる鏡をつくる鏡師 Ishitani Hiromu(いしたに ひろむ)さんを取材しました。
極限まで研ぎ澄まされた精神で鏡を磨く「鏡師」とは?
Ishitaniさんと出会うまで、筆者は「鏡師」という職人の世界があることを知りませんでした。鏡師とは、いったい何をやる人のことなのでしょうか。
「磨き専門の鏡師を名乗っているのは、分かっている限りで自分だけです」
磨きは想像できますが、魔鏡をつくる人がいる? そもそも魔鏡とは? そちらを追及すると横道に逸れてしまいそうなので、本稿では磨きについて伺います。
お寺では仏様をお祀りしますが、神社ではそれが神様で、象徴として御神鏡(ごしんきょう)があります。御神鏡には、ピカピカに磨かれてはっきり写るタイプと、ぼんやりとしか映らないタイプがあって、大きさも様々です。どのような鏡を飾っているかは、神社によって異なります。
鏡師とは、宮司さんしか触ることができない御神鏡を、特別に磨くことを許された人をいうのかと思いきや、それだけではないようです。
「じゃぁ、なぜ鏡なのかという話になりますが……」Ishitaniさんのお話は、ここから壮大な精神世界へと広がっていきます。
鏡は神道の世界と深い結びつきがある。
「なぜ三種の神器があるかということから話が始まります」
三種の神器とは、天皇家に代々受け継がれる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」という三種の秘宝のことです。
Ishitaniさんのお話は「御霊(みたま)」のイメージから始まりました。目には見えないけれどそこに宿る大きな力を、まだ神社がなかった古代の人たちも感じていて、お互いに共有するための表現が「御霊」だったのでしょう。それが転じて「鏡」になったり「勾玉(まがたま)」になったり「刀」になったりしたのではないかとIshitaniさんはいいます。
「なかなか簡単には説明できないのですが、御霊を球体のイメージでとらえると、いくらか分かりやすくなると思います」
完全な球体は「整っている」状態です。どこかが凹んでいると、そこに悪い気が取りつきやすくなります。それを「邪気」といいます。完全に整っていれば、邪気が取りつこうとしても、すぐに外れます。だから「整っている」ということは、同時に邪気を払う準備ができているということです。それが御霊の「たま」の意味で、鏡は自分を写して整えるものだそうです。宗教的な話ではなく、人間がもつ本質の話だといいます。
「鏡が表現するのは自分の魂ですから『命』そのものです。(胸に手を当て)ここにある命です」
銅鏡や青銅鏡で知られるように、古代の鏡は金属でつくられていました。もっと前の時代、鏡がなかった時代にも、鏡に代わるものはありました。
「水ですね。水面に写るキラキラした朝日や夕日の光を魂と同じものと認識して、自分の中にあるものが何かを分かっていたのでしょう。それを見て整えることができるという確信があったのだと思います」
Ishitaniさんにとって鏡とは、たんに姿を映すものではなく、魂を映す神聖なものなのです。
なぜ? 普通のサラリーマンが30歳を過ぎて宮司に弟子入り。
Ishitaniさんが鏡の世界へ入ったきっかけは、30歳を過ぎてから宮司さんに弟子入りしたことでした。
「大学を卒業した後、とある大手メガネ店に就職してサラリーマンをやっていました」
勤めはじめて8年が経った2005年のある日、奈良県にある神社の宮司さんが客として来店されました。
「店のスタッフとして応対して、お話をさせていただいたのですが、なんといいますか『人に惚れた』ということですね」
「興味があったら訪ねていらっしゃい」と名刺を渡されたので、Ishitaniさんは本当に訪ねていきました。
「伺ってみたら、そこには『何もないのに何かがある素晴らしさ』があって、弟子入りしようと決めました」会社に躊躇なく辞表を出し、再び宮司さんのもとを訪れて弟子入りを志願しました。
「宮司さんは困っておられましたが、弟子入りは許されました」宮司さんからIshitaniさんのご両親に電話をかけ「お預かりした以上は厳しい修業を課します」と話してくれたそうです。
ー ところで宮司さんの弟子って、具体的に何をやるのでしょうか。
「掃除が基本でした。通いの弟子だったので、師匠より早く行って社殿を掃除するのです」
陽が上がる前に朝のお勤めが始まって、宮司さんが祝詞(のりと)をあげているときに、背中から朝日が差してきます。ですから、夜明け前には掃除を終えていなくてはいけないのです。掃除の仕方にも作法がありましたが、具体的に手取り足取り教わったことはないそうです。
「何もいわないことが、師匠の教えなのです。やるべきことを自分で気づき、悟らないといけません」
ー さすがに何もいわれないと、悟りようがないのでは?
「ヒントを一言だけくださいます。たとえば『朝、気持ちええやろ?』と。ふつうに単純な頭で暮らしていると『はい』なんですけど、東から上ってくる朝日を体に浴びるとはどういうことなのかを調べると、カリウムイオンが動いて生体の細胞の中のエネルギー循環が起こり始めて活性化してきます。そのことを後々、文献で発見して気づくわけです。それであの一言だったのかと」
ヒントをもらったら頭をフル回転させて、そこにどういう意味や意図があるのかを考える。すべてそういう形の修行だったそうです。
「弟子修業は、人として鍛えられました。自分が作業をして体験して、すべて納得して分かった上で行動するのと、分からないまま行動するのとでは、心のもちようが違いますから」
「宮司にならないか」の誘いを断り、鏡師として外の世界へ踏み出す。
神社の掃除に使う水は水道水ではなく、境内に溜めた雨水でした。
「雨どいの下に井戸のようなものが設置されていて、そこに雨水を溜めてあります。冬は凍っているから、氷を割ってバケツですくった水で雑巾がけをしました」
ある日、Ishitaniさんは宮司さんから「これを磨け」といわれます。ふだんは社殿にしまわれていて、宮司さんしか触ることのできない御神鏡でした。
「御神鏡も、水を使って麻布(あさぬの)で磨きました」
その水も境内に溜めた雨水です。「そこにある水」を使うことが大事だとIshitaniさんはいいます。
「山の上に水蒸気が上がって雲ができます。そこから雨が降ってくると、雨どいをつたって水が溜まります。つまり『地元』の水です。おそらく家と同じで、その土地に生えている木で家を建てたほうが風土に合っているから長持ちするという感覚ではないでしょうか。もちろん、私から始まったわけじゃなく、代々やってこられたはずですよね」
さて、鏡です。宮司さんしか触れないことになっている御神鏡を磨くことになりました。
「御神鏡は、ものを写すための鏡ではありません。私が弟子入りした神社の御神鏡はボヤっとしか写らないのですが、なんだか『圧』を感じました。そこから何かが出ているのです」
なぜだろうと思ってよく考えた末に、Ishitaniさんはひとつのことに気がつきました。
「私の仮説ですけど、ひょっとして水ですかと尋ねましたら、師匠からは『気づいたのか』といわれました」
しかし、御神鏡の磨き方を確認していませんでした。Ishitaniさんは、水でゴシゴシ磨くものと思っていたのです。
「師匠はどうやってはるのかな?」宮司が御神鏡を磨いているときに見ていると、水をあまり使っていないことが分かりました。
「水を使わないというより、あまり要らないという表現のほうが近いです。後に分かるのですが、たとえば砂浜に同じ波が打ち続けると、砂浜は波の形になっていきます。人間の魂にもそれがあって、同じことをやっていると鏡に『型』ができます。それが意識の中にもできます。体はそれに合わせて勝手に動くわけです。すなわち精神のありようが手の動きに現れるということです」
Ishitaniさんの表現を借りると、水という物質を使って「見えざる型=鋳型」をつくっているのだそうです。
「心が汚れている人が磨いたら、鏡は歪んでしまいます。鋳型をつくっているのが、どうやら水であると理解しました」
そのような修業生活が10余年続きました。
「祝詞も憶えた頃に師匠が認めてくれて『宮司になるか?』というお話をいただきました。弟子入りはしましたが、宮司になるつもりはなかったのです。師匠には息子さんやお孫さんがおられるし、私は苗字も違いますから、お断り申し上げました」
歪んだ鏡に写ったら自分の魂も歪んでしまう。
神社での修業を終え、Ishitaniさんは2019年から「鏡師」を名乗って活動を開始しました。Ishitaniさんが行う「鏡を磨く」という行為は、技術や技能の世界とは違うといいます。
「どう違うか? だったら何なのか? そういわれると、言葉では表現しにくいです」
敢えていうなら「ワザ」でしょうか。鏡の磨き方も、Ishitaniさんなりの世界観があります。
「鏡は平面なんですけど、写りが深いと、立体に見えます。立体感覚をつくることでより三次元がリアルになります。それが本質かなと思っています」磨く時間も、いつでもよいわけではないそうです。
「新月の少し前から磨き始めて、満月の少しあとまで毎晩夜中に磨きます」前出のように、ただゴシゴシと磨くわけではありません。その感覚も、言葉では表現しづらいといいます。
「たとえば、右でも左でもいいですが、片方の腕にもう片方の手のひらを置いて、皮膚だけ掴んでみてくださいといわれたら、たぶん難しいと思います。ところが皮膚から骨へ順に触ったり叩いたりして確認したのちに骨を掴んでくださいといわれたら、意識が骨にいくから、わりあい簡単ですよね。そこからもういちど、皮膚だけ掴んでくださいといわれたときの感覚、すなわち意識なのです」
鏡は平面ですが、そこには深みがあるといいます。
「骨までいきたいのか皮膚だけでいいのか。深さを意識とするならば、それで深みの調整をしています。浅く磨きたかったら皮膚を掴む意識ですね。たとえば大工さんが、鉋(かんな)の刃を0.1ミリ単位で調整するときに、金槌でコーンと叩きますよね。適当に叩いているわけじゃなくて、こう叩けば刃がどれくらい出るか引っ込むかが感覚に沁みついているからできるのです」
Ishitaniさんが鏡を磨く際は、ヒノキの箱に鏡と水を入れて麻の布で磨きます。
「研磨剤という物質を使って物理的に調整する『研磨』とは違うので、素材の良し悪しがそのまま出ます。たとえば鏡の裏が波打っていたら、磨けば磨くほど鏡の表面にも波がどんどん出てきます」
歪んだ鏡には、自分の姿を写さないほうがいいというIshitaniさん。
「せっかく自分が整っていても、鏡が歪んでいると自分の魂が歪められてしまいます」
それは、すなわち「邪気が入りやすくなる」ということになりますから、鏡を磨くとはたんなる作業ではなく「整える」という責任があり、ある種の怖さも孕んでいるのだそうです。
アートは鏡の世界を表現する手段のひとつ。
ー 鏡を通して精神世界の奥深さを語ってくださったIshitaniさんは、職人でしょうか、それともアーティストでしょうか。
「その線引きは難しいですね。『作品とは何なのか』という定義が曖昧ですし」
大阪府八尾市にあるギャラリーで鏡を展示したときは、鏡の世界を言葉で表現しづらい代わりに、見て分かってほしいという想いから「アート的に展示した」といいます。
「どっちの方向から見るかということだと思います。アーティスト寄りから見ればアーティストだし、職人寄りから見れば職人だし、両方から寄せていったときにどこで合わさるのか。その境界線は、はっきり決められないと思います」
冒頭でご紹介したように、磨き専門の鏡師を名乗って活動しているのはIshitaniさんだけですから、自分の存在をもっと発信していきたいと考えているそうです。
「コロナ禍でなかなか動きづらい状況ですが、大阪・奈良・和歌山で行われる展示会に参加して『知ってもらうための活動』を、今は優先的にやっています」
また神社からお声をかけてもらえたら、御神鏡も磨かせていただくそうです。今後は物販のための商品づくりも計画しているといい、一部は試作に入っているとのこと。
最後にあらためて、Ishitaniさんにとって「鏡師」とはどういう世界なのかを尋ねてみました。
「一言では『神道の鏡そのものの世界を示すもの』。安易なスピリチュアルは通用せず、古代からリアルに大切にされてきた『命』そのものであり、見えない世界と見える世界を知るモノ(見えざるもの)と物(見えるもの)、すなわち命のルールや仕組みと言い換えてもいいかもしれません」
Ishitaniさんはこれからも、表現方法としてアートを使ったり講演を行ったりして、日本の伝統と文化を伝えるための活動を続けるとのことです。
関連記事