撮影を引き受けてから、先輩カメラマンに撮り方を教わって技術を身に着けてきたという田原さん。決して「できません」とはいわず、撮り続けて9年。今では国宝が建ち並ぶ由緒ある神社の専属写真館に自身のスタジオが指定されるほどの技術と信用を得て活躍しています。


独立初期の頃に使っていたカメラ  



支援物資の中に一眼レフカメラを見つけてビックリ!  

独創的なアイデアが面白い田原さんですが、専門的に写真の勉強をしたことはないそうです。

「学校に通ったり、写真家に弟子入りしたりしたこともありません」

フォトグラファーとして独立する前は、京都にある児童養護施設で働いていました。写真は趣味のレベルでもやったことがないといいます。


「勤め始めて4年目の2013年でした。ある企業から日用品や食料品の寄付をいただいたときに、デジタルの一眼レフカメラも入っていたんです。施設長に『カメラが入っていましたよ』と報告したら『あなた若いから、そのカメラで子供たちのイベントを撮ってくれ』といわれたのが全ての始まりです」

カメラの基本的な操作を憶えて、施設で行われる餅つきや学校へ行っている子供の運動会などを撮るようになり、しだいに写真の面白さに魅了されていきました。「やってみると、面白いんですよ」同時に、あることに気が付きました。


「児童養護施設には、虐待を受けた子供が集まってきます。親御さんは『躾(しつけ)をしている』といって子供に手をあげることを正当化するのですが、その意識を変えていく作業が必要です。こちらの話を全然聞いてくれなかった親御さんの中には、僕が撮った写真を見て『うちの子って、こんなに笑うんですね』『こんなふうに楽しそうにしている姿をみたことがないんです。もしかしたら自分が間違っていたのかもしれないですね』と自分の非を認めてくださった方もいたのです」



それまで「やってみたら面白い」という動機で撮っていましたが、写真がもつメッセージ性や伝える力が言葉よりも強いことにも魅力を感じて、さらに写真が好きになっていったそうです。それだけメッセージ性の強い写真を短期間のうちにマスターするには、さぞかし猛勉強したのではないかと思いますが、ご本人は「構図の本は買ったけど、勉強が嫌いで座学ができない性分」だといいます。ですから、あらゆるテクニックは撮りながら憶えたそうです。


「たとえば、走っている子供を撮ったら画像がブレました。その写真を、とある大手の量販店へもっていってカメラ売り場の店員さんに『これ、どうしたらいい?』と尋ねたら、懇切丁寧に教えてくれるんです。カメラに関する知識が豊富で、説明も分かりやすいですよ。『この設定にして、こういうふうに撮ったらいい』『この写真は、ライティングがここからこういうふうに光が来ているから、こう撮ったらいいよ』とか、メモを書きながら教えてくれました」

教えてもらったことをそのまま反映させたら、しだいに自分が撮りたいように撮れるようになっていったそうです。



はじめて有料で撮ったのは友人の結婚写真。謝礼を手にして怖くなった。  

田原さんが初めて有料で引き受けた撮影は、友人の結婚写真で、挙式や披露宴の撮影を頼まれました。


「こんど結婚するから写真を撮ってくれないかと、声をかけてくれました。『ええよ』と引き受けたときに『いくらで撮ってくれる?』と訊かれたんです」そのとき田原さんの脳裏に、いつか小耳に挟んだことがある記憶がよみがえります。

「知り合いが『結婚式の写真は30万円くらいかかる』と話していたのを聞いたことがありました」それが相場だと思い「30万円」といった田原さんに、友人は「まぁ、それくらいかかるよな」と納得して、現金で30万円を払ってくれたそうです。

「施設で働いている給料の2倍近い額ですよ。手元にポンと入ってきて、しかも結婚式を撮ったことがないし、人をまともに撮ったことすらなかったから、思わず震えが(笑)。やっちまったかもしれないと思いましたね」


それでも引き受けたことはやりきろうと覚悟を決めた田原さん。撮影場所の下見をするため、式場を訪れました。

「式場のスタッフさんには、さもベテランカメラマンのように振る舞いました。ここで撮るのは初めてなのでと理由をつけて、過去に撮影されたアルバムを見せてもらって構図と撮影の流れをさりげなく確認しました」


既婚者の友人にも協力を仰いだそうです。

「10人くらいいたので、全員から結婚式の写真データを集めました。1人につき400枚くらいあった写真をすべてプリントアウトして並べて、構図が共通している写真をピックアップしました。共通している構図で撮れたらプロとして成立するんだというゴール地点を決め同じ写真が撮れるように猛練習しました」


当日もベテランのように振る舞いながら撮影をこなした田原さん。できあがった写真を友人に渡したとき「すごくいい写真やわ。さすがやな」と喜んでもらえて、ようやく大役を果たし終えたのでした。

これが「プロとしてやっていけるかもしれない」という感触を得た瞬間だったともいいます。初めてカメラを手にしてから2年が経っていました。





退職後に発覚、80万円貯まっているはずの開業資金が15万円しかない。

独立して写真で起業することを決めた田原さんは、半年後に施設を退職しようと計画します。

「開業資金を80万円と決めて、収入と支出を計算したら半年後に貯まっている目途が立ったので」独立後は京都で活動することも構想していました。


「半年経って『今日で退職します。お世話になりました』って挨拶を済ませて、その足で銀行へいって通帳に記帳しました。そうしたら、80万円貯まっているはずの残高が、なんと15万円しかなかったのですよ」どこで計算が狂ったのか考えてみると「よく飲みにいっていたからなぁ」と、思い当たるふしはあったといいます。しかし、すでに施設を辞めてきたばかりで、手元には15万円しかありません。


 「あれれ?どうしようかな……」と途方に暮れかけたとき、救世主が現れます。二世帯住宅で祖父母と暮らしていた友人が「祖父母が亡くなって1軒分部屋が空いたから、入らないか」と声をかけてくれたのです。

「2階建ての1階を友人が個人事業の事務所で使っていて、2階がまるまる空いていました。家賃は月4万円くらいでネットが使い放題、光熱費込みでいいから、そこを事務所にするかという話でした」

厚意を受けることにして、契約書も交わしました。7畳間が2部屋あったので、事務所兼スタジオに使おうと、なけなしの資金をつぎ込んで整えました。それが完成した頃、部屋を貸してくれた友人から思わぬ裏切り行為を受けます。


「ここを改装して俺が住むから、出ていってくれといわれたんです」お金をだいぶ使った後だったので「それはないだろう!」と食い下がりました。しかも一方的に契約を破棄できないことは、契約書にも明記されていました。

「その契約書が3カ月更新になっていました。前もって聞いてはいましたけど、相手は友人だし、そのほうが手続き上やりやすいならと任せていました。それを逆手に取られるとは思いませんでした」

体よく追い出された田原さんは、仕方なく近くにマンションを借りて、立て直しを図らざるを得ませんでした。



仕事を請けてから撮り方を勉強して腕を磨いた。

せっかくつくった事務所兼スタジオを追い出されて、マンションを借りる羽目になったため、とにかく仕事を取らないとたちまち困窮しかねない状況でした。

「営業がすごく苦手なんですよ。何をしていいか分からないし、断られたらショックだし」


それでも、独立してから早い段階でブライダルの下請けを紹介してくれる人がいて、月に10万~15万程度は稼げたそうです。また、営業が苦手な代わりに、飲み会に誘われたら必ず参加して「カメラマンでーす、仕事くださーい」とアピールし、同席していた人から結婚式場を紹介されたり家族写真の撮影を頼まれたりして「死なない程度には、なんとかなっていましたね」といいます。


やがて、田原さんが撮った写真を見て「こういう写真も撮れるだろう?」と、ホームページの素材や建築物の撮影依頼が入るようになります。初めのうちは、頼まれる仕事のほとんどが「撮ったことがないモノ」でした。それでも引き受けて、知り合いのカメラマンに「こんな依頼を請けたけど、どう撮ったらいい?」と尋ねたり、YouTubeで見た背景の撮影セットを自分で組み立てて撮ってみたりして「これ、どう思う?」とアドバイスを求めました。


「たとえば料理のブツ撮りを頼まれたら、スーパーで買ってきた素材を撮ってみて、そのデータを知り合いのブツ撮りを専門にするカメラマンに送って『もうちょっとこうしたほうがええで』というふうに教えてもらうわけです。それを下積みと呼ぶならば、スタジオをつくるまで3年半~4年くらいやりました。ギリギリ食えていましたね。贅沢したいとは思わないし、自分がやりたいことができればいいと思っていました」


奥さんと知り合ったのが、このような下積み時代でした。田原さんは後に、奥さんから「お金が無いとは思っていなかった」といわれたそうです。

「悲壮感がなかったといわれました。なんとかなると楽観的だったからでしょうか」





写真は過去と現在の比較が面白い。時間にちなんでスタジオ名を「chikutaku」に。  

2019年2月、田原さんは神戸市灘区に「studio chikutaku」を構えました。なぜ「chikutaku」なのでしょう?

「時間と写真の関係性を意識していて、幼い頃の姿を撮って『かわいい』のはもちろんですが、10年、20年経ったときに振り返って『自分はこんなに成長したんだ』とか『こんなに変わったんだ』という感動があって初めて写真は面白くなると思っています。スタジオには時間に絡めた名前を付けたくて、時計が時を刻む音『チクタク』をスタジオ名にしました」


お宮参り、七五三、成人式など、家族にとって節目となる写真を多く撮影する中で、等身大アルバムが少しずつ評判を呼んで顧客を増やしているそうです。三つ折りの三面台紙に子供の身長そのままの大きさをプリントして、その瞬間の姿を等身大で残せるサービスです。


田原さんも娘さんの生後2日目と1歳の写真のほか、自分が1歳のときの写真で等身大アルバムをつくっています。

「1歳のときは身長78センチでした。それが30数年後には189センチです。この比較が面白くないですか?」1歳の我が子と20年後の我が子を並べて撮ることができたら、親御さんにとって、それはまさに至福の瞬間でしょう。

「人間は何かと比較することで自分の成長を確認する生き物だと思っているので、僕の理念に合っていると思います」


田原慎一さんと等身大アルバム(左・1歳の娘さん/右・1歳のご本人)



アート作品として「背中に咲く花」で個展を開きたい。  

写真はどんな作品でも表面しかなく、作品の裏側に回り込めたら、そこには何があるんだろうという好奇心から、「背中に咲く花」という表裏一対の写真作品が生まれました。きれいなものより面白いモノをつくりたいという田原さん。


「SNSでデータを見て満足するものではなくて、実際に足を運んでもらって体験することで価値が出るものって何だろうと考えたときに、パッと見たら普通のポートレートだけど、背中にまわったとき背中のジッパーが開いていて、その人を象徴する花が咲いていたら面白いのではないか。しかも綺麗だし。ということでつくったのが、背中に咲く花なのです」





背中に特殊メイクを施す  








特殊メイク・ヘアメイクアップアーティスト 岩咲希しのぶさん  


しかも、プロのモデルさんにお願いするのではなく「撮ってほしい人を撮る」のが基本だそうです。見どころは背中の花ですが、これは田原さんの友人で特殊メイク・ヘアメイクアップアーティストの岩咲希(いわさき)しのぶさんが3~4時間かけてつくります。


「花の種類は、その人をイメージする花です。その人を見て伝わってくるイメージを花に結びつけて表現しております。この作品を通して何を感じるかは皆違うので、自由に思い描いて発想を楽しんでもらえたらと思っております」(岩咲希さん)


田原さんは「10人分の写真が撮れたら「背中に咲く花」で個展を開きたい」そうで、モデルになってくれる人を募集しています。


田原さんに今後の展望を聞いてみました。

スタジオを構えた同じ2019年には、京都府八幡市にある石清水八幡宮の専属写真館にstudio chikutakuが指定されました。石清水八幡宮は、本殿を含む10棟の建造物が国宝に指定されている、由緒ある神社です。等身大アルバムのチラシを置かせてもらっていたことがご縁になり「七五三は撮れますか?」と声がかかったことがきっかけだといいます。


石清水八幡宮で七五三  


「今後は、うちの仕事を任せられるスタッフの育成ですね。僕の考え方や撮り方を、そのまんまできるカメラマンを育てます。理念が違う人が撮ると、全く違う写真になりますから」


たとえば七五三の写真を撮る際に、子供がなかなかおとなしくしてくれないことがあります。そんなときカメラマンが「大変だな」という気持ちを顔に出してしまうと、親御さんが傷つくのだそうです。状況を受け入れて、子供に向けて「初めての着物で大変やな。落ち着くまで待つわな」という気持ちがあれば、やがて子供も気持ちを切り替えて撮影ができたという結果につなげていけるといいます。

「うちの子、あんなにぐずっていたのに、いい写真を撮っていただいてありがとうございますと喜びを感じてくださる親御さんの気持ちだけでなく、撮影体験としても気持ちよくなってもらうことを、スタッフにも求めています」


こうして田原さんにお話を伺ってきて、家族のつながりを大切に撮るカメラマンという印象を強くもちました。それは、かつて児童養護施設で働いていた経験によるものでしょう。




■ studio chikutaku


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note 『背中に咲く花』シリーズ モデル募集

https://note.com/chiku_taku/n/nda1e1df4211c



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