元モトクロス選手の父親から、猛烈なスパルタ式トレーニングでモトクロスの英才教育を受けたという中堀敏宏さん。「やらされているモトクロス」から「やりたいモトクロス」へ意識を変える出会いがあったものの、気持ちのすれ違いから選手を辞めることになりました。

その後、長い自分探しの末、30代半ばにしてようやくみつけた映像クリエイターの世界へ羽ばたこうとしています。



初めてバイクに乗った日の記憶はない。物心ついたときには乗っていた

フリーランスの映像クリエイター「Toshipic Design」として活動する中堀敏宏さんは、1986年に兵庫県赤穂郡で生まれました。


「2歳で初めて自転車に乗り、バイクに乗ったのが3歳のときですが、記憶にはありません。物心ついたときには、もう乗っていました」

中堀さんのお父さんもモトクロスの選手でした。しかし、その世界では遅すぎる20歳からのスタートだったこともあって、日本一になる夢はかないませんでした。果たせなかった夢を、息子に託したのかもしれません。 中堀さんが初めて乗ったのは排気量50ccで、いちばん小さいクラスのオフロードバイクでした。


5歳頃の中堀さん 


まだ幼かったため大会名は憶えていないそうですが、5歳のとき、鈴鹿サーキットにあったモトクロス場で行われたレースで優勝。初出場での優勝でした。

その日を境に、お父さんのスパルタ式トレーニングが始まりました。


「コースを走っている最中に石とかスコップを容赦なく投げつけられて、本当に恐怖で、泣きながらバイクに乗っていました。走りが悪いと『歩いて帰れ』といわれて、山の中にある練習場に1人で置いていかれて、本当に歩いて帰ったこともあります」 


ー 辞めたいと思ったことはなかったのでしょうか。

 「辞めたいと言ったときに、父がどんな反応を見せるか……。想像するだけで怖すぎて、言い出せませんでした」



これからの成長を期待され、中学1年で高濱龍一郎選手のチームに所属 

中学1年のとき、ホンダのモトクロスチーム「TEAM HRC」で活躍し、当時全日本チャンピオンだった高濱龍一郎選手と出会います。


「赤穂の練習場に来られたとき、チームに誘われました。『この地元に中1でモトクロスをやっている子がいる』という話が、高濱選手に伝わっていたのでしょう」

こうして中堀さんは、高濱選手が監督を務めるモトクロスチーム「TEAM HAMMER」へ加入、本格的にモトクロス選手としての人生がスタートしました。高濱選手の指導は、中堀さんの走りを見ただけで欠点を見抜き、アドバイスが的確で分かりやすかったといいます。

「怒鳴られることも、石が飛んでくることもありませんでした(笑)」


着実に実力をつけ、レースでの成績を少しずつ伸ばしていった中堀さんは、2001 年に開催されたMFJモトクロス全国大会で優勝。優勝者の特典としてランクの2階級特進を決め、国内B級クラスから国際B級クラスへの昇格を果たしました。ちなみに、モトクロスをはじめ日本のモータースポーツは一般財団法人日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)が取り仕切っていて、モトクロスは年間10回のレースがセッティングされているそうです。


モトクロス選手時代・55番が中堀さん(撮影年・大会名不詳) 


「まずジュニアクラスがあって、国内B級、国内A級、国際B級、国際A級へと順にランクアップしていきます。僕は国内B級で優勝したので、国内A級を飛び越えて国際B級へ昇格したわけです」

プロへの昇格も視界に入ってきました。この頃からモトクロスを楽しめるようになり、「やらされていたモトクロス」から「やりたいモトクロス」へと意識が変わったといいます。


「練習した成果をレースで出せるようになったことと、同じ志をもつ者どうし、チームメンバーとの人間関係もよかったです」

国際B級に昇格してからは4回の優勝をおさめ、2003年にはジャンプに失敗して足を骨折したにも関わらず、1カ月後にはレースに復帰。

年間ランキング2位となって、プロ昇格を果たしました。



プロ選手の厳しい現実。モトクロスの世界を去って一般社会の厳しさを知る 

「プロになっても、給料がもらえるわけじゃないんです。賞金を稼がないといけないし、その賞金額も多いといえないのが現状です」

プロ選手として生計を立てるためには、スポンサーについてもらうか、メーカーの専属選手になるなどの方法があります。しかし高校生の中堀さんにはいずれも無理だったそうで、高濱監督のチームでマシンやタイヤの開発テストに携わることで収入を得ていました。

また16歳で国際A級へ昇格しましたが、レースの成績が思うように伸びなくなりました。


「国際B級の世界とは違って、闘う相手のレベルが高すぎました」

それに加えて、体のコンディションも芳しくなかったといいます。

「アスリート並みのトレーニング、メンタル、体力、どれも微妙に歯車が噛み合っていない感じでした」

プロの厳しさを否応なく突き付けられました。


それでも2年後の2005年、中堀さんは全日本モトクロス最終戦で2位の成績をおさめ、日本で開催された世界選手権に出場を果たしています。ただ、高校を卒業して競技生活に専念するようになると、チームを率いる高濱監督の中堀さんへの態度に変化が表れます。


「学生の頃は学業優先で平日は学校、土日休日はチームに合流して練習に参加する生活でした。卒業したら『もう学生ではない』と、態度が厳しくなりました。これまでにも増してレースで結果を出すようにプレッシャーをかけられ、精神的に追い詰められていきました」


モトクロス選手時代の中堀さん(撮影年・大会名不詳) 


2007年のある日、中堀さんは高濱監督から、かなり厳しい言葉で指導を受けます。

「そのときに、心が折れてしまいましたね。シーズン途中であと2レース残っていたのですが、監督に『残りのレースを辞退したい』と伝えました。こんな精神状態で走るのは無理でした」

しかし、簡単には認めてもらえません。メーカーとの契約があるため、レースには出場しなければいけないのです。

「そういわれたら、仕方ありません。レースには出るけれど、今年のレースが終わったらモトクロスを辞めようと決めました」残り2レースの成績は、惨憺たるものでした。「自分としては、消化レースです。上位の結果なんか出せるわけありません。無事に走り切ることだけを考えていました」


中堀さんは、こうしてモトクロス選手を引退しました。そうはいっても、まだ21歳。若さゆえに未熟なところもあったと、当時を振り返ります。

「今あらためて思い返せば、自分の努力が足りなかったし、監督が言ってくれた厳しい言葉も『どん底まで落ちたから、あとは這い上がるだけだ』という意味を含んでいたのだけれど、当時の自分は監督の想いを読み取れなかったんですね」


引退後の進路は何も決まっていませんでした。

「3歳からモトクロスしか知らなかったから、選手でなくなってしまうと何をしたらいいのか分からないのです」

モトクロスで稼いだ貯金は、1年も経たず底をつきました。

やむを得ずはじめた人生初めてのアルバイトで、一般社会の現実に直面します。スーパーで品出しやレジ打ちなどをやって、最初の給料をもらったときに衝撃を受けました。

「こんなに働いて、これだけ?金額の少なさもさることながら、自分が身を置いていたモトクロスの世界と一般社会の差を目の当たりにして、いかに世間知らずだったかを思い知らされました」



テストライダーの試験に落ちた後、デザインの世界へ進んだが2年でフェードアウト

中堀さんは「刺激のない生活に嫌気がさして」という理由でアルバイトを辞め、折しもホンダでお世話になった人から声がかかっていたテストライダーの試験を受けることにしました。量産型の新型車を実際に走らせたり、何年も先に発売される予定のバイクをテストしたりするのがテストライダーの仕事です。国際A級を取得していながら若くして引退した中堀さんを、このまま失うには惜しい人材と思われたのかもしれません。

しかし、初めに聞いていた「試験は形式的に受けてもらうだけ」という話とは違い、実際には筆記試験と面接をしっかり受けさせられたそうです。


「何の準備もしていなかったから、面接で『将来の夢は?』と尋ねられたって、そう大きな夢を語れるはずもなく……」

結果は不合格でした。次に受けられるのは2年後ということもあり、中堀さんは再試験を諦めて家業の自動車整備工場を手伝うことにしました。


動画作品「動画が与えてくれたもの #1動画との出会い」より 


「給料は3万円でした」

当然モトクロスほど本気で打ち込めるわけではなく、やりたいこともみつからない状況で、先行きへの不安だけが日に日に大きくなっていきました。


「長男だけどそのまま整備工場を継ぐ気はなく、やりたいことがみつかるまでのつもりで手伝っていました。自分は何をやりたいのかを、ずっと模索していたのです」

そんな不安を抱えながら過ごしていたある日、好きなアーティストのライブを観に出かけると、中堀さんは会場で見知らぬ人から「そのTシャツは、どこで買えるのですか?」と声をかけられました。本格的に勉強したことはないものの、絵をかいたりファッションをアレンジしたりすることが好きだった中堀さんは、この日、自分でデザインしたTシャツを着ていました。それを物販のグッズだと思われたようです。


「もしかしたら、俺のデザインって商品になるのでは?」そう考えた中堀さんは、スニーカーにイラストを描くペイントシューズを手がけたり、店舗の空間デザインを引き受けたりして収入を得るようになります。


中堀さんがデザインしたペイントシューズ 


専門的に勉強したことはないといいますが、もともとセンスがよかったのかもしれません。デザインの仕事は思いのほかうまくいき、家業の整備工場と兼業しながら依頼をこなしていました。また、この時期に、パリ・コレクションのチームにヘアメイクで参加していた友人の紹介で、パリコレにも同行しています。


家業を継ぐ気のない中堀さんは、デザイナーとして身を立てるべく、上京することを決めます。問題はお父さんでした。反対されることは想定していましたが、意を決して話してみると家族のみならず、親戚中からも猛反対に遭いました。

「あれは想定外でした」

揉めに揉めて、とうとうお父さんが自殺未遂をするに至ります。ロープをもって佇んでいるところを偶然訪ねてきた知人に発見され「おっちゃん、何しとん!」と声をかけられて我に返ったといいます。そうなると、反対を押し切ってまで家を出ることができなくなりました。 


「本当にデザインがやりたいなら、整備業をやりながらでもできる。そう自分に言い聞かせました」

整備工場を手伝いながら、時折頼まれるデザインの仕事も続けました。しかし、スニーカーにイラストを手描きする作業は、時間がかかる割には収益が芳しくありません。

「結局、2年くらいでフェードアウトしました」 

とにかく刺激が欲しい。刺激を求めて年に2度の海外旅行が楽しみになりました。

「日本にはないモノを見に行くことに、楽しみを見出そうとしていました」


シューズのパッケージにもイラストを描いた 



動画編集の魅力に目覚め今度こそ独立。拠点を大阪へ移す決心をして準備中

2019年、小型ビデオカメラ・GoProを購入して、アメリカ旅行に出発。気に入った景色を片っ端から撮影していきました。その旅の最中、日本で共通の知り合いを通して友人になったKさんと合流し、行動を共にします。Kさんは、ワークウェアで有名なNEXT WORKERZ社長の右腕的なポジションにいる人でした。

帰国後、中堀さんは動画編集ソフトを使って、アメリカで撮ってきた素材の編集に取りかかります。そして編集作業を終える頃には、動画の魅力に取りつかれていたそうです。


「これだ!と思いました」

もっとも、このときはまだ「いい趣味をみつけた」というレベルで、仕事に進化させるつもりはありません。編集した動画は、記念にKさんにも贈りました。それから後も撮影しては編集し、できあがった作品をインスタグラムに投稿していました。そんな中堀さんに、大きな転機が訪れます。


動画作品「人間が地球に生まれた意味。」より 


2020年にNEXT WORKERZとワークマンとのコラボ企画が決まり、関連動画を制作することになりました。このときKさんが中堀さんのことを思い出してくれたのです。「中堀君、動画の編集やっていたよね?」 動画の制作を、中堀さんにお願いしたいという話でした。 

 

「僕でいいのですかって感じでしたね。実績のない趣味レベルの素人に、いきなり仕事のオファーですよ」それでも、これをチャンスだと思った中堀さんは、オファーを請けることにしました。「GoProだけではどうにもならないので、急いで機材を買いそろえました」

撮影は1日で終わり、1週間かけて編集した動画を納品。これが映像クリエイターとしての初仕事になりました。

「趣味が仕事になるなんて、思ってもみませんでした」 


年齢はすでに30代の半ばになろうとしていました。もう「自分探し」とは言っていられません。中堀さんは、映像クリエイターになる決心と覚悟を固めました。 クリエイター名「Toshipic Design」として活動を始めてから今年(2022年)で2年余り、制作した動画をYouTubeチャンネルで観た人から問い合わせが入るようになりました。今はまだ家業の整備工場を手伝いながらの活動ですが、それも今年いっぱいで手を引くそうです。 


 ー お父さんは反対なさらなかったのでしょうか。 

「3歳でモトクロスを始めて、引退した後も父の意向に従って工場を手伝って、父にいわれるまま生きてきた感があります。30代半ばにしてやっと自分が打ち込めるものをみつけたので、今度こそは自分を貫きます」 


2023年には拠点を大阪に移し、映像クリエイターの活動を本格化させるため、今は諸々の準備を進めているといいます。

「ドローンを使った撮影もやりたいので、認可を受けるために電波法や航空法の勉強をしています」


動画作品「人間が地球に生まれた意味。」より 


長い回り道をした末にみつけた映像クリエイターの道。

今は年間の制作数が10本程度だそうですが、拠点を大阪へ移して出会いの機会をうまく掴み取り、きっと大活躍することでしょう。



■ Toshipic Design


ホームページ

https://www.toshipic-design.com/


Instagram

@toshipic_design


YouTubeチャンネル

https://www.youtube.com/watch?v=TwcCxz54dBU



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