兵庫県南部に位置する播磨地方。播州ともいい、忠臣蔵で有名な播州赤穂は、この地域に含まれます。かつては繊維産業が盛んでしたが、戦後は安価な海外製品に押されて衰退の一途を辿っています。
今も大小あわせて100社の工場が海外ブランドのOEMで操業していても、後継者不足と売り上げの低迷が続いて、繊維産業の灯が消えてしまうのは時間の問題といわれているのです。
その播州で伝統ある播州織を守り、かつての盛況を取り戻そうと奮闘する実業家・北條聖一郎さん(43歳)に伺いました。
「面接に落ちますように」、神様にお願いしたニート時代。
北條さんは、兵庫県加西市で、中古呉服の販売・卸と古美術の買い取りなどを行う会社を営んでいます。今は実業家として成功している北條さんですが、かつてはニートだったといいます。
「工業高校を卒業して第一工業大学へ進学したけど、2カ月で退学して、実家でゴロゴロしているだけの本物のプータローでしたよ」
そんな生活態度を、母親が黙って見ているわけがありません。
「めっちゃ怒られて、コンビニのバイトでも行きなさいっていわれました」
しかし、働きたくなかった北條さんは「どうか面接に落ちますように」と、神様にお祈りをしてから面接に臨んだといいます。
「結果は、ホンマに落ちました。茶髪でチャラい感じの店員もいる中、あんなにーちゃんでも働けるコンビニの面接に自分は落ちるんやな。自分で望んだとはいえ、これはアカンな、と」
そんなとき、たまたま「古物商をやれ」と勧めてくれる人がいました。
「目利きができるわけじゃありませんし、商売のノウハウもありません」
それでも、このままでは「人としてヤバい」という危機感から、古物商をやることになりました。
3万円を元手にオークションに連れて行ってもらい、初めはフリーマーケットで商品を売っていたそうです。ときには粗大ごみになりそうな家電製品や皿や鉢を引き取ってきて、商品として並べたこともあるとか。
「引き取ってきたものとかオークションで買ってきたものを、適当に並べていただけ。お客さんへの声がけも『これいいですよ、安いですよ』の2つだけ。説明ができないから、とにかく『こんなエエのないで!』といいながら一生懸命売っていました」
後々、地元の繊維業界を復活させるために働くことになろうとは、このときはまだ夢にも思っていなかったのです。
中古の着物を売って大当たり。思えば、それが今の仕事の原点に。
ものづくりにも興味があったという北條さんは、古物商をやりながら京都伝統工芸専門校へ入学します。漆塗りを2年間学びましたが、卒業しても就職先がないため古物商を続けていました。
そんなとき、まるでウソみたいな出来事が起こります。
「着物を大量に入手できたんですよ。段ボール箱に2つくらい」
まだ着ることのできる着物を大量に手に入れた北條さん。
「それを骨董市で売ってみました。着物の価値なんか分かりませんから、どれでも1000円の値札をつけたら、飛ぶように売れました」
当時関わっていた骨董市には、布製品を扱う業者が入っていなかったことも幸いでした。江戸時代から大正時代あたりまでの古い生地を集めては骨董市で売りさばき、やがてヤフオクにも出品し、売り上げを順調に伸ばしていきます。
北條さんが30歳のとき、着物をリメイクしてパッチワークをつくることが流行っていました。ある催事会場でのことです。パッチワークの材料として、着物を1枚3000~5000円で売っていたところ、その着物に袖を通してみるお客さんがいました。
「着物を着る人がまだいるの?」
お客さんに訊いてみると「あなたのところの着物はきれいだから、着る人はいるわよ」と。「だったら売れる」と確信した北條さん。
中古の着物を仕入れました。はじめは長机に並べて売っていましたが、見栄えが良くありません。もう少し売り場らしい体裁にしようと、ホームセンターで買ってきた茣蓙(ござ)の上で平面に並べてみたら、長机に並べたときの2倍も売れたそうです。やがてレンタルで畳を借りて少しずつ広げていき、最大20畳まで売り場を広げたといいます。
そのようなスタイルで全国の催事場をまわっているうちに、35歳になっていた北條さんはあることに気が付きます。
「呉服屋はどんどん潰れていくのに、振袖屋さんは元気なんです。しかも振袖はレンタルが多い。これはワンチャンスあると思いました」
思い立ったら行動が早いという北條さん。鹿児島で振袖のレンタルショップを開店します。北條さんには本業があるので、鹿児島にスタッフを雇ってスタートしたものの、目論見が外れて2年で撤退してしまいました。
「呉服の売り上げも、レンタルショップをやる前の半分まで落ちていました」
売り上げを回復させるため、着物を大量に仕入れては、片っ端からヤフオクに出品し続けたといいます。
「スタッフを雇ったら人件費がかかるから、ほぼ1人でやりました。異常でしたね。1日120点出して、同じ件数のメールに対応していました。1日18時間、休みなく」
そんな生活に、とうとう体が悲鳴をあげました。
「売り上げはV字回復したんですが、2カ月のあいだに2回も倒れました」
それからは無理をせず、仕事をセーブするようになったそうです。
そして40歳のとき、加西市で「株式会社 北條」を設立し、呉服の販売・卸と古美術の買取などを商いながら、2019年までは順調に業績を伸ばしていました。
コロナ禍で着物業界が動きを止めるも、新ブランドづくりに情熱を燃やす。
2019年12月初旬に中国の武漢市で最初の症例が確認されて以来、世界中へ広がった新型コロナウィルスによる感染症。日本でも緊急事態宣言が発出されて、人の流れがほぼ止まる状況に陥りました。
「着物を着て出かけるようなイベントが軒並み中止か延期になって、着物が売れなくなりました」
収束がいつになるか見えないまま2年が過ぎ、着物を買ってくれていたお客さんが離れ始めます。
「着物を着て参加するお茶会ができないから、料理教室へ通うとか。別の趣味にお金を使うようになってきました」
脳裏に「倒産」の2文字が浮かぶようになってきた2020年の夏、「心配ばかりしていても事態が好転するわけじゃない、何か新しいことをやろう」と思い立つのです。
綿100%の素材で防水と通気性を兼ね備えた防水布を売り込むも成果は出ず。
播州織は220年もの伝統があるのに、それ自体にブランド価値のないことに北條さんは気が付きます。
「ブランドは、ストーリーとマークがついているから売れる。だから、ストーリーとマークを売るべきと考えました」
播州織を使って、着物の自社ブランドを立ち上げようと考えた北條さんは、地元の織物工場「織馬鹿(おりばか)」へ飛び込んで、社長を相手に、播州織を商売として仕掛けていきたい想いをぶちまけたといいます。
「ふつうに考えたら、いきなり飛び込みで話なんか聞いてくれませんよね。でも織馬鹿の社長は聞いてくれたんです」
播磨地方に点在する播州織の工場は大小100社ほどありますが、多くは家族経営です。しかも30年前より安い工賃で仕事を請けていて、売り上げが年々落ちていました。そこへコロナ禍が追い打ちをかけ、どこも瀕死の状態だったのです。
しかも、製品になるまでに経る7つの工程はそれぞれが分業制になっていて、どこかひとつでも欠けたら完成しないといいますから、まさに危機的状況でした。すぐれた技術があって、OEMでハイブランドの生地を織っているとはいえ、放っておいたら播州織の灯が消えてしまうのは時間の問題です。
「200年以上続く伝統産業を、なんとかして残せないか」
工程ごとの工場を見て回ったとき、北條さんの目にとまったのが通気性防水の技術でした。空気を通すけれど水は通さない加工を、生地に施すのです。実験では、風呂敷に溜めた水が、1週間経っても漏れなかったそうです。通常の洗濯を50回やっても、あて布をしてアイロンをあてると、もう少し耐久性が上がることも知りました。
「これは面白いと思いました。課題は、ほかの布地とこれを、どう差別化して見せるかということです。たとえば、外観は同じに見える布地を2つ並べて『何が違う?』といわれたとき、簡単に説明できないでしょう。通気性のある防水布なら、一目瞭然です。SDGsを考えたときにも、素材も綿100%であること、防水塗料が水溶性であることです。綿100%で、これだけのことができるんです」
通気性のある防水布で播州織を売り込もうと、意気込んで企画をスタートさせた北條さん。販売戦略を練ってみたものの、成果はほとんどありませんでした。
そんなとき、友人の紹介で、中堀敏宏さんという動画クリエイターと出会います。中堀さんは当時、実家の自動車整備士工場で整備士として働きながら、動画クリエイターとして活動していました。
「中堀さんに撮ってもらった動画は出来が良かったのですが、僕がブランディングに関して素人ですから、組み立てが下手で、結果的にうまくいきませんでした」
「にっぽんの宝物 兵庫北播磨モノ・体験部門」でグランプリ受賞。
「四苦八苦しながら1年やっても成果がなく、もうやめようかと思ったこともあります」
しかし北條さんは、人との出会いに恵まれていました。通気性のある防水布の販売戦略に行き詰まっていたとき、知人から紹介された北村公一さんというデザイナーが播州にルーツをもつ人で、北條さんと意気投合。北村さんの提案で、播州全体を巻き込んでブランド化することと、BtoBとBtoCの二本柱で売ったほうがいいという方向性が定まりました。
そして、布地は身を包み、物を包むもの、さらには播州の技術をも「包む」という意味合いをもたせて「包」をテーマとし、「播州」と「包」を合わせて、通気性のある防水布のブランド名を「播包(ばんほう)」としました。この2文字を合体させたロゴマークも制作し、ゆくゆくは世界ブランドに成長できたらいいねという想いを込めたそうです。
さらに「播州織機能性仕上名称」として「B-Play(ビープレイ)」のネーミングも決まりました。
「Bは播州の頭文字。そこへ『はじく』『遊ぶ』『楽しむ』を意味するPlayをつなげ、それらの意味をひっくるめて『協力』という意味も込めました」
2021年には「にっぽんの宝物 兵庫北播磨モノ・体験部門」に播包を出品してグランプリを受賞。2022年2月に行われた「にっぽんの宝物JAPANグランプリ」では「産業シフト部門」でグランプリを受賞しました。
「売り込み先で話を聞いてもらうために、何か冠がほしかった。これがあるのと無いのとでは、相手の態度が違ってくるでしょう」
今後の構想は「播州百貨店」。播州百貨店から色々なツリーをつくる。
北條さんは、早くも次のステップに向かう構想をあたためています。
「にっぽんの宝物 兵庫北播磨モノ・体験部門に出たことで、いろんなジャンルの人たちと繋がって、アイデアも出てきました。そういう人たちとのコラボです」
アマゾンや楽天みたいに、いろんなツリーを出して商品を売っていく構想だといいます。
「名付けて播州百貨店。新しいことを始めた人が『どこでどうやって売っていいかわからない』というとき、播州百貨店で売りましょうと受け皿になれるような」
播州百貨店の知名度が上がれば、ツリーの下に入っている人にもチャンスが増えるから、やる気のある人はどんどん入ってほしいといいます。
「初めは、言い出しっぺの僕がリーダー役になると思います。ある程度軌道に乗って、自分よりさらに上を目指せる人がいたら任せたい」
1人で儲けるつもりはなく、播州全体で豊かになることが北條さんの目標だ。
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