大阪市の東南部に位置する平野区。江戸時代初期からある旧平野郷の町割りが残っていたり、当時から現代に至る各時代の建物が残っていたりするなど、歴史的な趣のある街です。
JR大和路線の平野駅~加美駅間の南側、かつて平野郷と呼ばれたエリアが、町そのものを博物館として開放する「平野・町ぐるみ博物館」として有名になっています。
平野・町ぐるみ博物館の取り組みを行う、「平野の町づくりを考える会」事務局の全興寺・川口良仁住職にお話を伺いました。
町の区画がまるごと博物館。地図を片手に探し歩くワクワク感
大阪市平野区にある全興寺(せんこうじ)は聖徳太子ゆかりのお寺と言い伝えられ、1400年の歴史があります。平野の町は全興寺を中心に発展し、江戸時代には集落を濠で囲んだ環濠集落を形成していました。
全興寺を含んだJR大和路線の南側に広がる南北約1km、東西約2kmのエリアが、町ごと博物館になっています。いわば町のあっちこっちに、様々なテーマの小さな博物館が点在しています。
町に点在する博物館は、取材した2023年8月3日現在で17館。大小さまざまな規模があり、お寺が開設している博物館もあれば、ごくふつうの個人宅が玄関先で開設しているものまで、バラエティに富んでいます。しかも、すべて誰でも無料で見ることができます。
一例をあげると、ふくろう薬局が開設している「ふくろう博物館」は、お店のショウウインドウに、大小さまざまなふくろうの置物が500点も展示されています。ふくろうは反映、英知、開運、厄除けなど開運を招く鳥をいわれ、薬剤師のご夫婦が趣味で集めたものだそうです。
お店のショウウインドウが博物館「ふくろう博物館」
薬剤師ご夫婦が集めたふくろうがズラリ
また、「へっついさん博物館」「おもろいライター博物館」は、個人宅の玄関先で2館同時に開設されています。おそらく小窓を改造したであろうショウウインドウに、生活用品のミニチュアが展示してあります。
へっついさんとは、関西地方の方言で、家庭の燃料がガスや電気になる前の時代に薪を燃料とした「かまど」のこと。昭和20年代の平野では、ほとんどの家庭で使われていたそうです。
同時に開設されている、おもろいライター博物館には、電話、トイレ、ギターなど変わった形をしたライターが展示されています。
個人宅の玄関先も小さな博物館
全興寺の境内にも「駄菓子屋さん博物館」「平野の音博物館」「歴史のまちなみ模型」などが展示されています。
中でも、平野の音博物館は、平野区で生活していると自然に耳に入ってきた日常の音が聞けるという珍しいコンセプトで、大正時代の電話機がたった1台だけ展示してあります。
川口住職は「おそらく『博物館』と名のつく施設では、日本でいちばん規模が小さいだろう」といいます。
ここでの展示物は「モノ」ではなく「音」。電話機の横にあるリストから番号をリクエストすると、スピーカーから音が流れてきます。定食屋さんの配達の音や公園で子供たちが遊ぶ音、上空を飛ぶ飛行機の音、すでに廃線になった南海平野線など、すべて平野区で収録することにこだわった音だそうです。
「平野で聞こえる音ですからな(笑)」
平野区内で収録することにこだわった「平野の音博物館」
番号をリクエストすると「平野の音」が聞こえてくる
ガイドマップにはそれぞれの博物館の位置が記されていますが、道順は記されていません。大きな看板も出ておらず、町並みに溶け込んでいるため、気づかずに通り過ぎてしまうこともあります。自分が今どこにいて、何を目印にするべきか、地図を読み取る力が要求されます。
しかも、マップには「探してください 迷ってください 迷ったら町の人にたずねてください」と書かれています。他の観光地では、このような一見「不親切」なガイドマップはありません。しかし、敢えてそのようにしている目的が、この町にはあるといいます。
町ぐるみ博物館の目的は子供たちに町の歴史と文化を伝えるため
平野・町ぐるみ博物館は1993年から始まった取り組みで、平野の町づくりを考える会が運営しています。新たに箱モノを建てるのではなく、町そのものを博物館に見立てようとする方式は、全国的に見ても珍しいそうです。
平野・町ぐるみ博物館が始まったきっかけをたどると、1980年まで遡ります。当時、大阪市西成区・今池停留場から平野区・平野停留場までを結んでいた南海平野線という路面電車がありました。交通事情の変化に伴って、この路線が廃止されることになったのです。
「上を阪神高速道路、下に地下鉄谷町線を通して、平野の駅舎を取り壊すというのです」
平野停留場の駅舎は木造八角形で、大正時代にできた当時は、さぞかしモダンなデザインだっただろうと思われます。
在りし日の平野駅舎をジオラマで偲ぶ(奥の八角形の建物)
「ユニークな形の駅舎を守ろうと、保存運動が起こったんです」
平野の町づくりを考える会が発足し、1年半にわたって保存運動が展開されましたが、町の人たちの願いは叶わず、駅舎は取り壊されてしまいました。
「旧駅舎と線路の跡は、いま遊歩道になっています。後で見に行かれたらよろしいでしょう」
南海平野線跡の一部は遊歩道になっている(平野停留場跡)
願いは叶いませんでしたが、この運動をきっかけに「自分たちの町を、今一度見直そうじゃないか」という機運が高まりました。こうして1993年から始まったのが平野・町ぐるみ博物館でした。
「平野の町づくりを考える会は、会長なし、会則なし、会費なしのフラットな組織です。今まで、会合もやったことがない。何かやるときは言い始めた人がリーダーになります。町ぐるみ博物館は、誰が発案したということではなく、みんなでやり始めたということなんです」
ガイドマップの裏には各博物館の解説が載っている(全興寺ホームページより)
決められたコースを順序良く訪ねるよりも迷って探して町を感じてほしい
江戸時代から残る古い建物、個人が趣味で集めた古い生活道具などが町の生活と共にある珍しさもあって、遠くから見に来る人は少なくありません。しかし、平野・町ぐるみ博物館の真の目的は、観光地化して人を呼び寄せることではないといいます。
「町づくりのコンセプトからいえば、町の再発見と再確認をして、自分たちの町をよく知ってほしい。とくに、平野の町に住む子供たちへ向けた発信です」
「平野・町ぐるみ博物館」ガイドマップ(全興寺ホームページより)
ガイドマップには「感風(かんぷう)の町」と書かれています。これは川口住職の造語だそうで、その意味を次のように語ってくださいました。
「観光とは光を見せる、すなわち表面だけのこと。実は目に見えないもののほうが大半なんです。音、歴史、文化、人の繋がり、それらは目に見えません。観光地化は見えるところだけになってしまうから、この町では観光地化しないと宣言しています。その代わり、感風すなわち風を感じてほしい」
川口住職は、さらにこう続けます。
「ほとんどの観光地は、何をどこで見るという順序が決まっていて、ガイドさんの後をついて回るだけ。最後にお土産を買って終わり。それでは、町を訪れたことにならない」
町ぐるみ博物館のガイドマップに敢えて順路が示されていないのも、町を訪れた人が迷いながら、17ある博物館を探してほしいからだといいます。
「駄菓子屋さん博物館」内の「昭和レトロ・ジオラマ展」
「探して迷ってください。迷うことで町の人の生活の場とか働いている場がいろいろ目に入ってきます。行きたい場所が分からなくなったら、町の人に尋ねてください。そうすることによって、町の人にガイドになってもらう狙いもあるんです」
筆者が以前、別の用事でこの町を訪れて目的のお宅を探しているとき、町の人から「どこをお探しですか?ご案内しましょうか?」と声をかけられたことがあります。きっと博物館めぐりをしていると思って、親切に声をかけてくださったのでしょう。
「人を呼ぶこと自体は、今はSNSを使えば難しくなくなりました。ところが、その町に暮らしている人に、町の魅力に気づいてもらうことがいちばん難しい。町づくりの目的は、そこなんですよ。住んでいる人は、自分の町には何もないと思っていますから」
小学校でも、地域学習の時間が激減して、子供たちが地元の歴史や文化を知る機会が減っていることを憂慮しているという川口住職。
「だから、町ぐるみ博物館がやっているのは、まず子供たちに自分の町を知ってもらうこと。それからここで遊んでもらって、イベントや行事に参加してもらうということが大切なことです」
大人が子供に向かって「教えてあげる」と構えるのではなく、遊び心をもって自分たちの町を発見してもらう場。平野・町ぐるみ博物館が存在する真の目的が、そこにあります。もちろん、よそから来ていただくのも大歓迎。ただしガイドは付きませんから、迷って探して町を堪能してほしいとのこと。
全興寺の境内にある「駄菓子屋さん博物館」
観光学を学ぶ学生が視察に訪れても実態をつかめない不思議な町
「観光の専門家から見た町ぐるみ博物館は、ちょっと常識外れかも」という川口住職。観光分野の研究者には平野・町ぐるみ博物館の存在はよく知られているそうで、観光学を学ぶ大学生が論文を書くために時折訪れるという。
「大学の先生がゼミ生を連れて来られたら、ここは観光地化していないこと、するつもりもないことをお話します。そうすると学生らは『こういう考え方があるのか』と愕然とするそうです。論文を書こうとしても、論文にならない。大変失礼だけど、論文を書くために見に来ていただいても、すごく難しいと思います」
「駄菓子屋さん博物館」には昭和20~30年頃のブリキのおもちゃを展示
先述したように、1993年に7館で始まった平野・町ぐるみ博物館。個々の運営は、それぞれの主が自己負担で、入場料を徴収せずに開放しています。だから、参加するのも止めるのも自由。そうして増えたり減ったりしながら、現在は17館がそれぞれにテーマを決めて展示スペースを開設しています。そうして30年も続いて、しかも館数が増えているのは「発展してきた」ことの証であるはず。
「それは何故かと問われても、我々にも分かりません。分からないけど、30年間続いてきた現実があるから、それが答えとしかいえない。それを理論化することはできません。だから、よそから見たら、不思議なことなんです」
研磨の実技を公開している「かたなの博物館」
「かたなの博物館」では日本刀が展示されている
そして、よく質問されるのは町ぐるみ博物館の今後のこと。
「皆自己負担で自由にやっていますから、受け継いでくれる人がいたらそれでいいし、なくなってもいい」
本音は町づくり活動を次の世代に継承してほしいようですが、現実は厳しいとも考えられています。「それは、次の世代の自由に任せること」という川口住職。「受け継いでもらう」という目標を設定した時点で、次の世代から自由を奪ってしまうことになるからかもしれませんね。
「縁というのは、永遠に続くものではありません」
だから、受け継ぐ人がいなくなって、なくなってしまうことも受け入れられるのでしょう。
廃線跡の広場にある八角形屋根の平野駅舎をイメージしたモニュメント
筆者が町を見て歩いた印象は、平野・町ぐるみ博物館に参加している個人や企業にとっては、生活の一部としてすっかり定着しているように見えました。
17ある博物館個々の開館日や時間帯はバラバラですが、月1回は一様にそろえようということで、第4日曜日はすべての博物館が開館しているそうです。
全興寺・川口良仁住職
全興寺でも第1~第4土日には、境内にある「おも路地」で駄菓子屋さんや紙芝居の出る「あそび縁日」を開いていましたが、コロナ禍で長らくできていないとのこと。
いずれ復活する日を楽しみに、平野・町ぐるみ博物館を迷いながら探し歩いてみませんか。
■ 高野山真言宗 野中山 全興寺
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