大阪市でオペラ歌手として活動する西原綾子さんは、舞台に立つ傍ら音楽大学で一般向けの講座をもったり個人レッスンをしたりして、音楽のすそ野を広げる活動にも取り組んでおられます。


しかし2020年の初頭から流行し始めた新型コロナウィルス感染症(コロナ禍)の影響で、出演が決まっていた公演は軒並み中止か延期となり、個人レッスンも中断を余儀なくされました。



通し稽古当日の朝に中止の知らせを受けた

年間数本の公演をこなす一方で、大阪音楽大学で「オペラ研修所」という一般向け講座を受けもったり市民合唱団で指導したりするほか、個人レッスンで12~13人の生徒を指導するなど、音楽漬けの日々を送る西原さん。指導は「分かりやすく楽しく」がモットーだといいます。


「オペラ研修所では、歌のレッスンのほかに演技のレッスンもあって、私たちがやっている同じことを体験してもらっています」


個人レッスンに通ってくる生徒は、西原さんが所属する関西歌劇団の若手オペラ歌手のほか、趣味でオペラを楽しむ一般の方もいます。

「一般の方には、音楽を楽しく分かりやすく教えています。厳しくして、音楽を嫌いになられたら本末転倒ですものね」


また、年末の風物詩となっているベートーベン「第九」のシーズンが近づき、大阪府吹田市の合唱団から指導を頼まれているとか。

「グループや家庭で、ボイストレーニングをやってほしいという要望をいただくこともあります」


公演で西原さんの歌を聞いて直接指導を頼んできたり、西原さんのInstagramやFacebookなどSNS経由で連絡がきたりするそうです。大学、合唱団、個人など対象は違っても、指導は基本的に同じ空間に立って対面で行われます。


コロナ禍では、それが一切できなくなってしまいました。公演は中止か延期。延期といっても、いつ再開されるかわからない状況でした。個人レッスンは自宅のレッスン室で行うため生徒は来ることができないし、西原さんのほうから出向くこともできませんでした。


「公演もレッスンもゼロになりましたね。クラシック音楽だけじゃなく、音楽業界はどこもそんな状況でした。舞台で働くスタッフさんも、仕事がなくなりました」


またタイミングが悪いことに、コロナ禍が猛威を振るい始めた2020年は、公演や演奏会に呼ばれる回数が、西原さんの人生でマックスに到達するはずだったそうです。


コロナ禍で公演は延期や中止に(画像提供:西原さん)


「オペラだけでも、7公演くらいは流れてしまいました」

公演やレッスンがゼロになった期間は、収入もゼロになってしまいました。たとえ1日限りの公演でも、まず個人で稽古をして自分のコンディションを仕上げたのち、最低3か月前から合同で稽古をするそうです。


その年の春、兵庫県の伊丹市民オペラで「アイーダ」という大きな作品に出演することが決まっていて、3月1日から通し稽古が始まるはずでした。

「3月1日の朝に、中止の連絡が来たんですよ」


フリーランスが多い音楽業界の窮状は、想像以上でした。

「本当に何もやることがないのですが、公演が来年とか再来年には再開されると信じて、日々の練習は欠かしませんでした」


まったく外へ出ない生活は体力が衰えてしまうため、早朝のウォーキングを始めた西原さん。その中で小さな楽しみを見つけたそうです。

「朝6時半から1時間半ぐらい歩くんです。帰りはあのパン屋さんでパンを買って帰るぞとか、新しいお店ができていないかなとか、地元を探索する気分でした。ふだんは自転車で通り過ぎて気づかないけど、ゆっくり歩いたらあらためて発見できる楽しさがありました」



声楽のレッスンを受けながら音楽大学を目指した高校時代

西原さんが声楽を始めたのは、中学生のときでした。

「休部になっていたコーラス部を復活させたんです」

それ以来ずっと声楽一筋の人生かと思いきや、本音をいうとピアノで4年制の音楽大学へ進みたかったそうです。

「音大の先生に師事してピアノを習っていたんですが、中学2年のときに先生から『今のレベルだと4年制は難しい』といわれて……」


なんとしても4年制の音楽大学へ進みたかった西原さんは「何か手はないか?」と考えました。そんなとき、コーラス部を復活させたことを知ったピアノの先生から「歌をやってみない?」と声がかかり、声楽の先生を紹介されました。


ピアノは幼少期から始める人が多いですが、声楽は高校生くらいから始める人が多いそうです。

「女性でも声変りがあるので、体が出来上がってから本格的に声楽を始める人が多いです。音大の入試直前に始める人もいますよ」


西原さんは高校進学後の3年間、週1回のレッスンに通い続け、その努力の甲斐があって、推薦入試で音楽大学へ進むことができました。しかし当時はまだ、プロの道へ進むことは考えていなかったといいます。

「私が3歳のとき父が亡くなって、母と私と妹の母子家庭でした。妹もピアノを習っていてレッスン代で負担をかけていました」


古民家をリノベーションしたレンタルルームで行われたミニコンサートとワークショップでの1コマ(画像提供:西原さん)


プロの歌い手になるより、音楽教師やピアノ教室の先生になることを考えていたそうですが、大学3年生のとき、方向性が変わり始めます。

「歌の上手い学生がピックアップされる特進コースに通ったんですけど、4年生で落ちてしまいました。そのとき『もっと上手くなりたい』と負けん気が出たことと、進路を考えなくてはいけなくなったので、この世界へ進むことも考えてみようかなという流れになりました」


オペラを本格的に学べる専攻科へ進んだとき、素の自分とは違うキャラクターを演じる楽しさに目覚めました。

「どちらかというと教室の隅にいるタイプだったんですけど、自分を解放できるというか、違うキャラクターになって何か表現できることがすごく楽しくて。オペラの世界って、しんどそうやけど楽しそうっていう想いが湧いてきたんです。オペラ作品を1本やるのは体力的に大変だし、知識も必要だし、演技の要素も求められる総合芸術なので、どこまでできるか分からないからこそ挑戦してみようと思いました」


大学を卒業後は関西歌劇団のオーディションに合格して、3年間の研修生として入団。


そこは3年間のカリキュラムを履修して、一定基準の成績をおさめないと正団員になれない厳しい世界でした。ところが西原さんは、研修3年目に「アマールと夜の訪問者」(ジャン=カルロ・メノッティ作曲の1幕のオペラ)に出演が決まり、これがオペラ歌手としてのデビュー作品になりました。


飛沫防止対策を施した昨年のレッスン室(画像提供:西原さん)



舞台の上でアクシデントが起こらない日はない

デビュー作品から20数年の間、多くの公演をこなし、音楽活動を続けてきた西原さん。コロナ禍で延期を余儀なくされていた公演が再び動き始めた頃には、すっかり秋になっていました。


「歌と管楽器は息を吐くでしょ。飛沫が直接飛ぶからって、音楽業界では再開がいちばん遅かったんです」


いずみホール(大阪市)での関西歌劇団コンチェルト・ブリランテにて(画像提供:西原さん)


ここでふと疑問が湧いて、尋ねてみました。オペラは、作品によっては1公演が2時間半にもおよびます。役によっては出ずっぱりになるといいます。自分が歌う場面なのに、歌詞が出てこなかったことはあるのでしょうか。

「日常茶飯事ですよ(笑)。舞台とオーケストラの間あたりにプロンプターがいて教えてくれます。でも最近では、日本でも海外でもプロンプターを廃止する方向に動いています」

プロンプターとは、演者がセリフや所作を失念したときに、きっかけを教えるスタッフのことです。


「プロンプターに頼ってしまう人がいるんですよ(笑)。とくに学校の先生とか他のお仕事もなさっている方は忙しいし、年配の方も多いので『分かれへん、教えてくれ』ってSOSを出すんです。それをするとプロンプターのほうへ目線が動くし、お客様もそれが気になって興ざめしてしまうから良くないよねってことで」


奈良県大和高田市で行われた第九コンサートにて(画像提供:西原さん)


そういうわけなので、完全に頭に入れておかないといけないのですが、どうしても思い出せないときは、即興で歌詞をつくって乗り切るといいます。

「すぐ思い出して元の歌詞に戻ってこられるので、とにかく音をなくさないようにします。あるいは、状況を察した誰かが代わりに歌ってあげるとか。そこは舞台に立っているみんなが団結して、阿吽の呼吸でカバーし合っています」


また、アドリブも、よく入れたり入れられたりするそうです。

「相手の顔を見たら『入れるよね』って分かります。演じながら、そこを楽しんでいるところもあります」


また、同じ作品を何度か演じていても、コピーしたように同じことはしないそうです。

「やっぱり生身の人間ですから、そのときの感覚で変えることがあります。そういう裏話的なことも知ってもらったうえで見に来ていただけたら、オペラにもっと親しみをもっていただけるんじゃないかと思います」


宝探しのような感覚でアクシデントやアドリブを探す、新しい楽しみ方ができそうですね。



音楽活動ができない日々はチョークアートに勤しんだ 

オペラ歌手として活動を続けてきた西原さんは、プロのチョークアーティストでもあります。コロナ禍で音楽活動ができなくなった日々は、チョークアートに勤しんだといいます。


チョークアートはオーストラリア発祥で、日本に入ってきたのは2001年のこと。オイルパステルという画材でボードに絵や文字を描くアートで、お店の看板やメニューボードのほか、似顔絵や風景画など、大きさや活用範囲は多岐にわたります。


「音楽活動にストップがかかったとき、今はチョークアートに時間を使えということかなと思って、ペットの似顔絵を始めたんです。皆さんの心が沈んでいるときに、何か助けになることを模索していました」


西原さんが描いたチョークアート作品(画像提供:西原さん)


西原さんがチョークアートに出会ったのは2016年、自宅に欠陥を発見したことがきっかけでした。

「この家の欠陥を見つけてしまったんです。あまりにも酷かったから調べていただいたら、やっぱりおかしいっていうことで、工務店と話し合ったけどなかなか進まない状態が3年間も続いたんです」

工務店とは話し合いで決着がつかず、裁判所での調停まで進んだそうです。最終的に工務店が非を認めたものの、その3年間で西原さんは心身ともに疲れてしまいました。


「友達が心配してくれて、『家が建ったら、音楽の教室をするっていってたやん。例えば看板とか、飾る絵とか描いてみたら?』って勧めてくれたのがチョークアートだったんです」

自宅から自転車で移動できる距離に、チョークアートの先生がいたことも幸いでした。

「これはもう『行け』ってことだなととらえて、訪ねていって体験させてもらったら面白いから『習います』と(笑)」


チョークアートのベースに使うボードはMDFボード(Medium Density Fiberboard)といい、端材や間伐材を再利用したもの。表面が黒板のような風合いに仕上がる特殊な塗料を塗って、その上からオイルパステルを使って描いていきます。 チョークといえば、炭酸カルシウムや硫酸カルシウムを主成分とする、学校の黒板に書く文房具のイメージが強いと思いますが、チョークアートにはオイルパステルを使うのが一般的だそうです。


MDFボード



オイルパステルで描く


「ご要望をいただいたお客様にはペットの写真を何枚か送っていただいて、そのペットが好きなものも伺って構図を決めます」


A3かA4サイズの作品を描くことが多いそうですが、過去にはアトリエに入らない大型作品のオーダーを受けたこともあるそうです。

「自分が出演するオペラ公演の大型看板を『姉さん、描いてよ』って頼まれました。12月に屋外の駐車場で描きましたよ。『寒いのにごめんね』っていわれながら、周りにストーブを何台も並べてもらって(笑)」


こちらはホールの廊下で大型のチョークアートを描いたときの様子(画像提供:西原さん)


音楽活動が再開されてからは音楽に重点を置き、時間に余裕ができたときにチョークアートを描くという西原さん。

「公演が入ると準備に時間を取られてしまうので、ほとんど描けなくなるんですけど、描くと決めたら朝方まで描いています」


音楽活動の合間を縫ってチョークアートの修行を積み、2018年には講師の資格を取得して「アトリエ Tiel(ティエル)」をスタートさせました。


古民家をリノベーションしたレンタルルームで行われたミニコンサートとワークショップでの1コマ(画像提供:西原さん)


「チョークアートはまだまだ魅力を知られていませんので、店舗やイベントなど多くの方の目に留まる場所へ飾っていただけるように、活動範囲を広げていきたいと思っています。また、指先を使って色のイメージを膨らませる作業は、子供はもとよりお年寄りの脳トレにも良いといわれているので、介護施設でチョークアートを活用いただけるようご提案していきたいです」


本業の音楽活動については「自身の演奏活動は今のまま続けながら、個人の生徒、合唱団やグループへの指導を増やしていきたい。歌は心身を健康に導き、素敵な人の輪をつくれますから」とのこと。


レッスン室に飾られているチョークアート作品



チョークアートで描くペットの似顔絵(画像提供:西原さん)


芸術は決して遊びではなく、時間、知恵、努力、そしてお金を費やして大切な文化を守ることはもちろん、次世代へ継承する強い想いがなければ続けられない厳しい世界であることを再確認する取材でした。 



■ アトリエ Tiel


公式HP

r.goope.jp/atelier-tiel


電話番号

090-7883-1468


Instagram

@atelier.tiel