「自分の手の届く範囲の人たちを、幸せにできればと思っています」


そう語るのは、現在フリーランスでカメラマンとして働くかたわら、被写体モデルやライブ配信で活動している渡部千鶴さんです。「舞台役者・脚本家・モデル・アイドル・動画編集者・カメラマン」と様々な分野で活躍。


なぜ、表現を続けていきたいのか。その原動力は何にあるのか。 その思いを渡部さんに伺いました。



活発な文学少女だった幼少期


学校のイメージ


幼少期は、全学年で30名を切るほど生徒が少ない小学校で育った渡部さん。活発で明るい性格を活かして、友人を作ることが得意な子供だったといいます。ですが、周囲と仲良くなりやすかった反面「皆が喜ぶように」と、自分の思いよりも周囲に合わせるような性格もあり、自分の感情を表に出せない子供だったそうです。


家に1人でいるときは動物の絵を描くことが好きで、描いた絵はコンクールに入賞したこともあり、芸術系への興味を深めていきました。


また、中学校では、当時の国語の先生に読書感想文や生活体験文が褒められたことがきっかけで「もっと先生に認められたい」という思いから、物書きにのめりこんでいき、その後も読書感想文や校内コンクールで賞に選ばれる、文学少女となっていきます。


「絵を描くことも好きだったんですけど、文を書くのも好きだったので楽しんで書けました。のちの脚本作りにも役立っています」と渡部さんは笑顔で話します。



写真部に入部。言葉で伝えられないものを写真で表現


高校3年生の地区大会にて提出した作品たち


高校生になり、所属する部活動を探していた時、写真部の先輩方が撮影した写真に感動したと言います。


「先輩方の表現力が凄かったですし、なにより自分の作品を誰かに見てもらえる自分の場所ができたと思ったんです。小学生の頃から“好きだな!”って思ったものを、写真に収める癖があったんですが、誰かに写真を見てもらう機会なんて無かったので、“自身の表現の場ができるんだ!”と喜んだのを覚えています」


元々写真好きだった母の後押しもあり、写真部に入ることを決め、当時購入した一眼レフカメラとともに、写真漬けの青春時代を過ごします。


入選を獲得した作品「ONE」


言語化ができない独自の感性を、自身の写真を通じて形にすることで、公益社団法人全国高等学校文化連盟のコンクールでは1年生と2年生で佳作。3年生では入選に選ばれ、全道大会にも進出し、結果を残していきました。


「私が感じるその人の色、雰囲気。相手が喜ぶものを作りたいという思い。人間関係で裏切られた哀しい思い。この感覚を作品に反映できるようになったのかなと思います」と渡部さんは当時を振り返ります。

カメラに没頭する様子 


その腕前から、外部カメラマンの仕事を学生時代に依頼され、一定の評価を受けます。


また、アイドルに憧れがあったものの、体型を馬鹿にされた過去から「自分は表舞台に立ってはいけない見た目だ」と思っていましたが、写真部に入って被写体を経験するにつれ少しずつ自信をつけていきました。周囲からの後押しも受け「どうせなら、やってから後悔しよう」と思い立ち、学校祭ではステージパフォーマンスとしてダンスを披露。多くの観客から歓声を浴びることに。


その出来事をきっかけに「私も表舞台に出ていいのかもしれない」と感じ、撮影と俳優の学科があるエンタメ系の専門学校へ進学することにしました。



念願の表舞台へ。しかしひたすらトラブル続き

専門学校入学当初は撮影を専攻していましたが、芸能事務所を巻き込んだ学校内のアイドルオーディションに合格するなど、表舞台に立つことが増えていきました。


初めて脚本を務めた作品のポスター


演技は当初かなり苦手で、うまく台本を読むこともままなりませんでしたが、めきめきと上達し、周囲からはその努力が認められていきました。


俳優ではなくても、スタッフとして舞台に関われるかもしれないと考えていた矢先、身に覚えのない体重増加。病院に行ったときには、卵巣が通常の10倍以上に膨れ上がっていました。右卵巣嚢胞(のうほう)と診断され、一週間後には手術を行うことに。


手術を無事に終え、腐ることなく悔しさをバネに脚本を書いたところ、舞台に採用されるなど、その後も多方面で才能を発揮していきます。


前回の舞台キャストを断念したリベンジを果たす為、猛特訓を積み準備を整えていきます。


ですが、去年病気を手術した時と同じ時期、「学校で一番規模の大きな舞台」と「自身が出演予定の舞台」、就職活動とも言える「芸能事務所のオーディション」が間近に迫る中、右卵巣嚢胞(のうほう)が再発。今度は卵巣が白くなっていることが発覚してしまいます。 


「『危険な状態なので卵巣を摘出します。舞台かオーディションを諦めてください』と言われました。奇しくも⼿術の⽇は、オーディション当⽇だったので、一体なんのために頑張ってきたんだろうと思いましたね」と当時を振り返る渡部さん。


結局、自身が掴みかけたチャンスに、挑むことも叶わないまま学園生活を終えることとなりました。「そこに私の全てがかかっていたといっても過言ではありませんでした。しかも特に誰かが悪いというわけではないので、なおさら感情の行き場が無かったです」と、肩を落としたといいます。


その後、専門学校を卒業し、進路に迷っていたところ、動画制作会社の立ち上げに誘われ、フリーランスの動画編集者として携わることに。しかし、経営陣の折り合いがつかず会社が空中分解。 また、アイドル活動もスタートさせましたが、こちらもライブ出演は叶わないまま解散してしまいました。


「何をやってもうまくいかない」という歯がゆい気持ちと、焦りを抱えながら、季節だけが過ぎていきます。 



カメラマンとして再出発


自身の所有するカメラ


悲しみに暮れ、自身の次の道をどうするべきか考えたとき、その道を示してくれたのは、高校生の頃に魅了された写真でした。


「撮影スタジオの求人を見つけて、もっともっとスキルアップしたいと思ったんです。表舞台に立ちたいし、表現もしたい。なので、その第一歩としてカメラマンとしてのキャリアを選びました」


北海道のスタジオでは、ヘアメイクや証明写真の撮影をこなしてスキルを磨きつつ、アイドル時代から実施していたライブ配信にも力を入れていきます。


そして、東京本社のスタッフで欠員が出たことによる、東京勤務の打診を受け、2022年からは慣れ親しんだ北海道から東京へ移住。アーティスト写真といった、よりクリエイティブな撮影が多い東京のスタジオへ異動し、被写体としての活動も開始しました。


アーティスト写真


「北海道では本当にいろいろなことがありましたし、一時期は本当にこれから何をすればいいのかわからなかったです。ですけど、写真があったから自分のやりたいことがはっきりしたのかなと思います」


現在は、毎月のように北海道と東京を往復する二拠点生活をしながら、写真とライブ配信を通じて、表現を続けています。



写真と脚本の力で周囲の人が報われるように

最後に、渡部さんの展望を伺いました。


「カメラマンとして撮りたい表現があるので、いずれは自分のスタジオをもって、表現専用の環境を整えて、撮ってほしいという人を全国各地で撮影したいです。あと、学生のころは病気で舞台に立てなかったので、舞台にも立ちたいですね」


また、渡部さんがアーティスト写真を撮影した俳優が、段々とメディアへの露出が増えてきていることで、よりカメラマンとしての手ごたえを感じているようです。


「自分の周囲で俳優として頑張っている人が苦労しているのも知っているので、私が撮影すれば人気になれるくらい、もっと力をつけたいです。私の手の届く範囲の世界を、いい世界に変えていければと思っています」


目を輝かせながら、これからの展望を語った渡部さん。 カメラマン、モデル、ライブ配信を通しての、表現者としての探求はまだ始まったばかりです。



渡部千鶴さん


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