世界最大の戦艦と呼ばれる大きなボディの「戦艦大和」を、テレビや映画で目にしたことがある人は多いのではないでしょうか。
ここ、広島県呉市にある「大和ミュージアム」では、戦時中の出来事、そして戦後はどのように街が復興したのかについて触れられます。大和ミュージアムは呉市の歴史を知ることができるとともに、平和を考えられる場所なのです。
大和ミュージアムは、1945年(昭和20年)の第二次世界対戦中において戦艦大和の乗組員たちの苦悩や葛藤・生き様を描いた映画「男たちの大和」が公開された2005年に開館し、軍艦が好きな人・興味がある人を中心に今も話題を集めています。
大和ミュージアム広報担当の花岡さんに館内を案内していただきながら、お話を伺いました。
この記事では呉市の歴史・大和ミュージアムの魅力に迫ります。
大和ミュージアムを歩く
広島県呉市は「海軍の街」と言われ、軍艦などの生産がされてきましたが、なぜ呉市が拠点に選ばれたのでしょうか?
その答えは、呉市の地形にあります。呉市は狭い海峡で挟まれているため、敵からの攻撃を防ぐには最適の場所であったのです。その特徴を活かして「海軍の街」となりました。
そしてその呉に設立された大和ミュージアムは、呉市や日本の歴史を感じられる場所です。館内には、戦中の様子・復興への道だけではなく、軍艦大和が造られる工程も紹介されています。
筆者も実際に館内を歩いてみて、知らないことが多いと感じました。
出迎える大迫力の戦艦大和!来場者からも驚きの声
来場者からも驚きの声 「来場する人はみな、10分の1戦艦大和の大きさに圧倒される」と花岡さんは話します。
10分の1戦艦大和とは、実際の戦艦大和を10分の1の大きさにして再現した模型。大和ミュージアムに入ると、館内1階の「大和ひろば」(写真展示室の目の前)に設置されており、堂々とした佇まいで来場者を出迎えてくれます。
設計図・写真・潜水調査の映像などを参考にし、最大限本物と同じように再現されています。 10分の1戦艦大和の全長は、26.3メートル。10分の1に縮小しても、この大きさと迫力は圧巻です
この10倍の大きさである本物の戦艦大和の姿を想像するだけで、圧倒されます。
実物資料から知る戦艦大和の製造工程
展示室には、歴史や科学技術に関する数多くの資料が展示されています。まずは、戦艦大和の製造工程を学べるエリアに進んでいきます。
電気溶接で用いられた道具
戦艦の製造は、電気溶接の技術が取り入れられるまでは、鋲打ち(部品を接合したい部分に、金属や樹脂を打ちつける手法)の方法がとられていました。
鋲打ちは非常に手間がかかるため、大きな戦艦を作るときのネックでありましたが、電気溶接で造ることにより、従来よりも製作費や時間の節約ができたといいます。
鋲打ちに用いられた道具
電気溶接は当時かなり先進的な技術でありました。戦後の造船においても大きな影響を与え、後に船を造るときのメジャーな手法の1つとなりました。 その優れた技術は、当時世界トップレベルのものでした。
戦時中の戦艦大和とその乗組員
1945年(昭和20年)4月5日、戦時中の日本において、戦艦大和にも出撃命令が下ります。そして出撃命令から2日後の4月7日、戦艦大和の艦内から米軍の戦艦を目視で確認。同日の12時34分に、攻撃を開始しました。
しかし米軍からの圧倒的な攻撃により、約2時間後の14時23分に攻撃中止を迎えます。この戦いで、乗組員3,332名中3,056名が犠牲となりました。
戦艦大和乗組員が両親に宛てて出したハガキ
戦艦大和の乗組員が両親に宛てて出したハガキも展示されていました。このハガキには、「自分は元気で軍務に当たっているので安心してほしい」という内容、そして家族の健康を願う記述もありました。
戦艦大和第2艦隊に当てられた訣別電報
出撃命令が下った次の日の4月6日、出撃するにあたって、沖縄に向けて出向した戦艦大和第2艦隊に向けられた訣別電報です。
筆者はこれまで広島市に住んでいながらも、詳しく戦艦大和の歴史を知りませんでした。
来館をして貴重な資料を目にしたことで、戦艦大和製造に何年もかかった理由であったり、乗組員のほとんどの人たちが命を落としてしまったりしたことを学びました。
また、自分たちが大変な環境に身をおきながらも、乗組員の人たちが最期まで家族を思う気持ちは、言葉では言い表せない気持ちになりました。
戦時中の一般市民の暮らし
戦争は、軍隊以外の一般市民にも暗い影を落とします。戦況が悪化するにつれ、市民にも次々に困難が襲いかかりました。
子どもたちは生まれ育った呉を離れ、農村部への集団疎開を余儀なくされることに。学生たちも労働を強制され、勉強に費やす時間はほとんどありませんでした。
思春期に自分のしたいことができず、命令をされて働かなくてはならない日々は、彼らにとって本当に辛い日々だったでしょう。
展示物のなかには、1945年(昭和20年)7月24日に呉市の民家を直撃した爆弾の破片も展示されていました。
破片ですらこの大きさであることに、とても恐怖を感じます。
複数回の空襲に襲われた呉市では、多くの尊い命が犠牲となりました。
同年の8月6日、アメリカ軍により世界で初めての原子爆弾が広島市に落とされます。その威力はすさまじく、市は一瞬にして壊滅状態となりました。
原爆投下時に上がったきのこ雲を呉市から撮影
呉市からも原爆投下時のきのこ雲が、はっきりと見えたそう。
広島市への原爆投下から3日後の8月9日、今度は長崎市が原爆の被害を受けます。
それから約1週間後の8月15日、日本が降伏したことにより終戦を迎えました。
復興までの道のり
終戦後、呉市では食糧難が深刻に。しかし各所の努力により、昭和20年代後半からは徐々に改善がされていきました。
また服装も戦時中は国民服やモンペが主流でしたが、戦後は現代の服装に近づいたオシャレな洋服になっていきます。住まいも県営アパートが建てられるなど、次第に呉市は活気を取り戻していきました。
現在の戦艦大和は海底の奥底に
2024年となった現在の戦艦大和は、海底の奥底に眠っています。
1982年(昭和57年)には、初めて海に沈む大和がNHKにより撮影されました。
また、戦艦大和の引き揚げ品は現在までに、計118点が引き上げられています。 引き揚げられたものの中には、乗組員が使っていた生活用品なども。
戦艦大和の引き揚げ品
海底から引き揚げられた戦艦大和の測距儀
これらの引き揚げ品が、戦艦大和の大きさを物語っています。
正式名称は「呉市海事歴史科学館」
大和ミュージアムは、実は正式名称ではないことはご存じでしょうか? 正式名称は「呉市海事歴史科学館」。大和ミュージアムが一般的に浸透しているだけに、驚きです。実は筆者も、今回訪れるまで正式名称を知りませんでした。
名称について花岡さんにお伺いしたところ「2005年に開館してから、ずっと大和ミュージアムという呼び方で呼ばれていますね。一般の方が正式名称を知っているかは不明です。」とのことでした。
大和ミュージアムという名前が一般的に知られている中で正式名称を知っていると、一目置かれるかもしれませんね。
親子で参加できるワークショップも開催
大和ミュージアムではお子様も参加できるワークショップやサイエンスショーを、毎週末開催しています。月毎にテーマを変えて、親子で楽しめるイベントが多く企画されています。
「どなたでも参加可能です。ぜひご参加ください。」と花岡さん。
家族で参加できるとのことなので、思い出を作るにはピッタリですね。
2025年には大規模なリニューアルが
今後の大和ミュージアムの展望としては、今しか見られない展示室もあるのでしっかり見てほしいと話す花岡さん。
大和ミュージアムは、2025年に大きくリニューアルします。
今回のリニューアルはこれまでにないほど、大規模なものになるそうです。
「リニューアルで変わる部分はもちろんだけど、これまでの展示物も魅力のあるものばかり。ぜひ大和ミュージアムにご来館ください」と花岡さんは話します。
「これまで呉まで足を運んだことがない方もぜひ大和ミュージアムに足を運んでほしい」とワクワクするような展望を語っていただきました。
日本の歴史が知れる場所、大和ミュージアム。ぜひ一度、足を運んでみてください。
■大和ミュージアム
〒737-0029広島県呉市宝町5番20号