福井県と滋賀県の県境に位置する愛発(あらち)地区の国道8号線沿いに、四季折々に異なった顔を見せてくれる美しい棚田の風景が見えます。しかし、この美しい棚田の景色を守り続けることは並大抵の努力では実現できませんでした。


この地区は福井県敦賀市奥野。15、16軒程度の限界集落です。2011年、高齢化の影響で、ほとんどの田んぼが耕作放棄するとの知らせを受け、立ち上がったのが集落の最年少である岸本拓哉さんでした。


「今、誰かがやらなければ、二度とこの美しい景色を見ることができなくなる」


そう考えた岸本さんは、仕事を辞めて専業農家へと転身。「ふぉれすとりーふぁーむ桜の樹」を設立しました。相棒は田んぼの草刈りを手伝ってくれる、5匹のヤギです。


今回はそんな岸本さんに、農業を始めたきっかけや農業を通じた地域の活動、今後の活動などについて詳しく伺いました。



未経験から専業農家への転身


現在の棚田風景(奥の建物手前に国道8号線が通っている)


岸本さんは敦賀市内で森林組合に勤務し、土木や山を守り育てる仕事に携わっていました。しかし、広域化に伴う二度の合併を機に退職を決意します。


ちょうどその頃、岸本さんの居住地である奥野の田んぼを守ってきた営農組合が解散することを知ったそうです。



田んぼの担い手が居ない


岸本さんの自宅付近から見える美しい棚田の風景


岸本さんは地元の営農組合が解散の危機に瀕していたことを知ったとき、驚きを隠せなかったといいます。 営農組合が解散すれば田んぼだけでなく土手や河川の景観を守ることができません。今まで当たり前だと思っていた玄関から見える風景が、当たり前ではないことに気がつきます。


じつは、それ以前にも解散の兆候はありました。耕作を放棄されたある圃場が荒れ果てて、葦(あし)が生え、その葦が燃えて火事になったことがあったそうです。近隣の住民は「あのときは30m以上も炎が上がった」といいます。


その頃の奥野の農地は各田んぼの区画が小さく、誰も手がつけられない状態。車は入れず、一輪車(ねこ)を使用しての手作業が主で、手間のかかる圃場でした。


この問題を解決するため、2000年に圃場整備が実施され、田んぼ1枚の面積が平均2反(約0.2ha)まで拡張されました。


圃場整備前の棚田の様子(画像提供:岸本さん)


作業効率が良くなり、営農組合によって耕作放棄がなくなりました。しかし、農業の担い手という大きな問題が残ります。


圃場整備から10年が経過した2010年、10年間の良好な耕作をし続けたことで圃場整備時に受けた交付金の返還義務がなくなったそうです。圃場整備当時に営農組合で種となって活躍していた60歳代の人たちは70歳代となり、いよいよ担い手問題が大きくなります。


結論として、これ以上耕作を続けられないとの判断となり、営農組合の解散が決定したとのこと。このような担い手問題は愛発地区だけではなく、日本全体で起こっている問題ではないでしょうか。


しかし、当時岸本さんは地元の営農組合が担い手問題に直面していることを全く知らなかったといいます。「来年の春に営農組合は解散して耕作をやめる」「続けようと思っても代わりもおらん」と聞かされたことで初めて、大きな問題であると実感しました。


岸本さんは元々機械操作に長けており、農機具の扱いに不安がありませんでした。さらに、農作業はお年寄りがしているイメージが強かったこともあり、「年寄りでもできるんだから、やってみるか」と安易に自分で農業を始めることを考えます。


ただし、岸本さんの実家は兼業農家で1反(約0.1ha)の田んぼを耕作していましたが、岸本さん自身は農業未経験で、地元住民が使用する専門用語も全くわからなかったといいます。


春には鏡のように光り輝く水田、初夏にはたくさんの蛍が飛び交う幻想的な夜、秋には黄金色の稲穂のじゅうたん、冬には雪の結晶が光輝く銀世界、その全てを守りたい。その想いが岸本さんの心を突き動かします。



景観だけではなく希少生物の宝庫だった

棚田の美しい景観を守るために岸本さんは立ち上がりました。しかし、棚田を守ることは景観を守ること以上に意義があることがわかったそうです。


奥野の棚田には、ゲンゴロウ、タニシ、アキアカネ、イモリなどの生き物や水草などの水中植物が豊富に生息しています。岸本さんは幼少の頃から目にしているので、当たり前に生息しているものと思っていたそうです。


しかし2019年、同じ敦賀市内の中池見湿地の豊かな生態系を守る特定非営利活動法人「中池見ねっと」の取り組みであるラムサール・ネットワーク日本の「地域交流会in福井」に参加したことで、珍しい絶滅危惧種が多いことがわかりました。


同年12月7日、東京で開催された「田んぼの生物多様性向上10年プロジェクトの全国集会」に岸本さんは招待され、棚田の生態系に関するレポートを発表しています。


現在は、ラムサール条約を意識しつつ、田んぼの生態系保護と稲作に取り組んでいるそうです。



省力化と自然農法を目指しつつ耕作面積を拡大


雪の中でもヤギは元気(出典:Facebook)


岸本さんは現在、奥野の棚田5haに加え、その他の地域も含めて合計19haの耕作をしています。農業に携わるときには、棚田の5haの耕作だけでも生活には困らないと聞いていたとのこと。


「昔は『10haの耕作をすればかなり儲かる』と言われていたのですが、現在はその2倍の耕作をしても厳しい状況です」


岸本さんが農業に取り組み始めた翌年から米の価格が下がり始めます。さらに、新型コロナの影響で飲食店での需要が減り、米の価格はますます低価格化しました。昨今の物価高騰の影響で肥料、燃料、農薬などの価格が高騰していることもあり、経営は困難な状況です。


また、コロナ禍において飲食産業には補助金が給付されましたが、一次産業に対するコロナ関連の補助金はありません。しかも、政治的なこともあり、今後もすぐに米の価格が上がることは期待できない状況です。


岸本さんの栽培するコシヒカリは、化学肥料と農薬を通常の2分の1以下に抑えた「福井県のこだわり米」に登録されています。しかし、こだわり米であっても、米の買い取り価格は他銘柄と同じ。消費者側に安全性を訴えるだけのものだといいます。


さらに、農業を開始してから10年が経過し、機械類も更新時期となってきました。国の補助金は大規模農家が対象のものばかりなため、岸本さんが受けられる補助金は少ないそうです。今は大型農機を購入するために借金をして、返済の日々を送っているといいます。


このような状況下であり、経営を続けるためには耕作面積の拡大と省力化は避けて通れませんでした。



獣害対策として電気柵から恒久柵に変更


イノシシによって掘り起こされた畦と踏み荒らされた稲(上)・捕獲したイノシシの様子(下)(画像提供:岸本さん)


岸本さんが最初に取り組んだのは獣害対策でした。


どれだけ作業を省力化しても、農作物が収穫できなければ意味がありません。じつは、過去にはさまざまな被害に遭い、思ったように収穫ができない年もありました。


一夜にして農作物が害獣によって食い荒らされてしまったり、台風や大雨などの異常気象によって大きな被害を受けたりしました。


「昨日か一昨日のことなのですが、すぐそこに20頭くらいのシカがいました。さすがに多くてびっくりです。また、イノシシによって一晩で畦(あぜ)がなくなってしまうことも何度も経験しています」


農地を荒らす獣害は主にイノシシやシカ、サルです。特にイノシシとシカの被害は大きく、イノシシには農地を踏み荒らされ、シカには稲の苗を食べられてしまったことも一度や二度ではありません。


昔は人が山に入ることで獣が山を降りてくることもなかったといいます。今は獣の活動範囲が拡がり、食料を求めて里に降りてくるようになりました。


獣害対策の恒久柵を設置する様子(出典:Facebook)


最初の獣害対策として、電気柵を設置したとのこと。岸本さんは景観への配慮もありフェンスに頼らない獣害対策にこだわっていたそうですが、必要に迫られて電気柵の設置を決意します。


しかし、約2mの高さの電気柵を設置しても乗り越えられたり、通り抜けられたりすることもあり、被害は多少軽減する程度。電気柵では根本的な解決にはなりませんでした。


そこで、次の獣害対策として検討した方法が恒久柵の設置です。恒久柵を設置するにあたって申請する補助金は、山の際に設置する場合に限られていたそうですが、行政との話し合いの末に田んぼの周りに必要最低限の設置条件で許可を得たとのこと。


「山の際だけに柵を設置しても、イノシシやシカは道路を通ってヒョイっと出てくるので意味がありません。また、雪が降って木が倒れたら柵も壊れるし、補修も自分でしなければならないので大変です。森林組合にいたときに同様の事例をたくさん見てきたので、恒久柵の設置については入念に交渉しました」


早速、岸本さんは補助金を利用して、恒久柵の材料を購入しました。設置に関しては専門業者に依頼すると費用がかさむため、全て自分で設置したそうです。恒久柵の設置により、その後は高い効果が得られ、獣害被害を受けることは少なくなったといいます。


また、恒久柵の中にヤギを放牧することで、野生に近い状態でヤギを飼育できるメリットも生まれました。



5頭のヤギで草刈りを省力化


田んぼの際で迎えてくれたヤギ


耕作面積を増やすことで肉体的な負担の大きな作業も増えるため、何もかも一人で対応することはできません。特に、草刈りは刈払機での除草作業がしにくいセイタカアワダチソウやクズが多く、手間がかかっていました。


そこで導入したのがヤギです。 ヤギの大好物はセイタカアワダチソウやクズのため、ヤギの放牧によってほぼ絶滅したとのこと。結果的に手間のかかっていた草刈りの省力化ができました。


最初は2頭のヤギから開始し、どんどん子供を産んで一時期は10頭以上の大所帯になったこともあるそうです。しかし、病気で亡くなったり、知人に譲ったりして、今は5頭のヤギが草刈りを手伝ってくれています。


ヤギの寿命は犬と同じ12年から15年くらいとのこと。ただし、岸本さんは野生に近い状態でヤギを飼育していることから、寿命は長くても10年程度だといいます。


「うちのヤギは完全に自分が野生だと思っています」


ヤギを見に来る人たちにはよく懐きますが、注射をしたり薬を飲ませたりする岸本さんは敵対視されているため逃げられるそうです。ヤギが岸本さんに懐くのは、冬場に餌を持って行くときだけとのこと。


また、棚田を守るうえでは草刈り以外の省力化にも取り組む必要がありました。



ドローンを使って農薬散布


ドローンによる農薬散布


取材に伺った日、岸本さんはドローンによる農薬散布を実施しているところでした。


以前は噴霧器を背負って農薬散布をしていたそうですが、棚田での農薬散布は平地での作業とは異なり体力を消耗します。岸本さんは省力化のためにドローンの免許を取得し、ドローンを購入したそうです。


噴霧器での農薬散布は一般的に1反あたり10〜20分かかるのに対し、ドローンを使用することで1〜2分に短縮できるといいます。また、棚田という性質上、高いところから見下ろしながらの農薬散布が可能となり、平地でドローンを使用する以上に効率的なところもあるそう。


このように省力化と獣害対策によって、稲作以外の事業にも取り組む余力が生まれました。現在は新たな事業として、主に3つの取り組みを行なっています。



新たな事業として

岸本さんに今後の活動方針や地域活動について伺いました。


以前はECサイトを立ち上げて「こだわり米」の販売をしようと考えていたそうですが、そのアイディアはまだ実践していないとのこと。現在はECサイトの代わりとなる事業に携わっています。



ふるさと納税の返礼品として


ヤギと棚田が描かれた米のパッケージデザイン


現在、敦賀市はふるさと納税に力を入れています。ふるさと納税の返礼品として、岸本さんがこだわって栽培した「愛発の棚田米(コシヒカリ5kg、ハナエチゼン10kg)」が取り扱われるようになりました。


ふるさと納税の返礼品は新たな販路拡大として最適です。現在のところは自らECサイトを立ち上げる必要もなく、全国へ感謝の意味を込めて届けられます。


ふるさと納税サイトの口コミでは「高級感がある装いで、見た目どおり美味しかった」などのコメントが寄せられていました。


また、8月にパシフィコ横浜で開催された「Rakuten Optimism 2023」においても、ふるさと納税の人気返礼品のブースが設置され、「愛発の棚田米」も紹介されました。今後はふるさと納税が益々盛り上がるでしょう。


岸本さんの活動は時代の流れとともに大きな変化があり「地域だけではなく、色々なつながりができて面白い」と語ってくれました。 



以前から興味のあったシャインマスカットを栽培


ビニールハウス内で栽培中のシャインマスカット


棚田の脇に設置されたビニールハウス内では、岸本さんが以前から興味があったというシャインマスカットを栽培しています。


「今年は全国的に粒が綺麗な形にならないんですよ。実際に取り組んでみて、シャインマスカットの値段が高い理由がよくわかりました。シャインマスカットに限らず、葡萄の栽培にはそれだけ手間がかけられています」


栽培されたシャインマスカットは、主に大阪や京都の飲食店へ出荷されています。新たな出会いやつながりにより、注文も増えてきているとのこと。


他にも、人と人とのつながりから新たな事業へと発展することもありました。



地酒のための酒米づくり


稲刈り直前に黄金色に色づく田んぼ(出典:Facebook)


岸本さんは現在まで、様々な活動を通じて地域に貢献してきました。これからは仕事の合間に趣味である自動車やバイクのレストア、温泉巡りなどで心のリフレッシュをしたいといいます。


そんな中でも地域活動として取り組んでいるのが、敦賀市の地酒づくりです。


じつは、敦賀市の地酒は2005年を最後に製造されなくなったため、敦賀市の有志により地酒を復活させようとしています。2024年の北陸新幹線開通に向け、現在はクラウドファンディングを通じて資金調達などを行なっているところです。合言葉は「地酒で鏡開きをして新幹線を迎えよう」とのこと。


そこで、地酒づくりに必要となるのが酒米です。岸本さんは地域のつながりから、地酒用に酒米作りを始めることになりました。もちろん酒米の栽培は未経験なため、全てが手探り状態です。


敦賀市には酒造会社がないため、岸本さんが収穫した酒米は、小浜市にある小浜酒造で醸造される予定となっています。小浜酒造は「地酒の灯を絶やさない」を合言葉に設立された酒造会社。どのような地酒ができるのか、今から楽しみです。



これからも細々と景観を守り続けたい

岸本さんは農業や現在の地域活動に意欲的に取り組んでいます。しかし、これからはそれほど目立つようなことはせず、静かに田舎暮らしを楽しみながら生きていくことが目標だそうです。


美しい棚田の景観を維持するとともに、希少性のある水生生物や水生植物を次の世代に引き継げるよう、岸本さんは今日もこつこつ努力しています。


国道8号線から見える、何気ない田園風景にもさまざまなドラマがあることを知り、胸が熱くなりました。




■ ふぉれすとりーふぁーむ桜の樹


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〒914-0311

福井県敦賀市奥野23-1


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